Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.6.22

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その64

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第四 江戸大阪間の交通
  一 街 道 (2)
管理人註

寛永の武家 法度 幕府の交通 政策は矛盾 か

 それは兎に角、徳川氏は幕府開設以来、交通に関し少からず注 意を払つたといへる。さうしてその政策は寛永十二年(一六三五) の武家法度第十五條に「道路・駅馬・舟梁等、無断絶往還之停滞事」、第十六條に「私之関所、新法之津留、制禁 之事」、第十七條に「五百石以上之船停止之事」と明白にあらは されてゐる。こゝに五百石以上の船とは兵船を指す。商船は五百 石以上でも差支ない。さうしてこの交通奨励の意味の箇條は、よ しや文句に相違はあつても、寛永以後歴代の武家法度に出てゐる。  幕府は交通の便宜を計るのに尽力してゐながら、半面には矛盾 の態度を示してゐるのではないかといふ議論がよくあります。そ の一例として家康が欠矧川に橋を架けながら、大井川を歩行渡 としたことが引かれる。その物語は左の通りです。  家康が岡崎在城の砌、矢矧川の橋が流れた。老臣等は費用の倹 約と敵兵防禦の便宜とを理由として、新橋架設に反対した処、家 康はこれを駁し、この橋は本朝に名高い橋である。さるを我が代 になつて橋を代へて渡しにせば、海道の旅容の困難一方なるのみ ならず、敵を怯れ、費用を厭つて橋を廃めたりと、天下後世に笑 はれんこと、国主たるものの恥辱である。況んや国の治乱は人の 和にあつて、地の利の如何によるにあらず。片時も早く普請せよ と命じた。然るに寛永三年(一六二六)将軍家光が上洛するに際 し、弟の駿河大納言忠長が御馳走として大井川に船橋を架した所、 家光はこの船橋に臨んで俄かに色を変じ、箱根大井は海道第一の 険要にして関東の蔽障なりと、神祖も大御所も常に仰せられた。 然るをかく浮橋を設けて往来を自由にせしむるは、以ての外なり と大方ならず憤激した。後年忠長の罪を獲るやうになつたのは、 これが起原であるといふのです。なる程一方では橋を架け、一方 では橋を架けないといへば、矛盾です。大河を以て防禦上の一大 便宜とした戦術上の考が、後世戦争のない時代に至つても抜けな かつた。それだから大井川に橋を架けなかつたといへば、それも 一理屈ですが、それなら何故欠矧川に橋を架したかの説明に困る。 戦術上の理由よりも、寧ろ水量の増減の著しいことや、川筋の容 易に変更することによつて、架橋が不可能であつたといふのを主 なる理由とし、欠矧川に橋を架け、大井川に橋を架けなかつたの は、矛盾でないといひたいのです。

 


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