Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.6.23

玄関へ

「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その65

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第四 江戸大阪間の交通
  一 街 道 (3)
管理人註

大井川 関所 入り鉄砲に 出る女

 東海道の諸大河中、橋のあるのは欠矧豊川位であつて、六郷・ 馬入・富士・安倍・大井・天龍の諸川は大抵舟橋・渡船・又は歩 行渡で、歩行渡の中で殊に難儀なのは大井川であつた。これを 通過するには川会所へ懸合つて川札を買ふ。人夫の肩車で越すの が一番安価の方法で、それ以上になると輦台で渡す。輦台は数名 の人足で舁ぐので、大名が渡る時には駕籠のまゝ輦台に載せ、二 十四人でかつぐ。その外に水切人足が若干名つくといふ有様で、 大層な事であつた。大井川は水が四尺以上になると馬を通さない。 四尺五寸以上になると人を通さない。五尺以上になると状箱(公               ドメ 用の書類)を通さない。所謂川止で、水が減るまでは両岸の島田、 金谷の宿で三日でも五日でも待つて居らなければならぬ。公用で 旅行するものも川止といへば何時まで延びても差支はない。川止 のために旅行者が種種の困難を嘗めた様子は民間省要(中編之四) に詳かに述べられてゐる。  その外新居の渡と熱田桑名間の渡。これも迷惑であつたであら うが、それ以上に旅客を悩ましたのは関所である。関所は街道筋 到る処にある。その名称や位置や所管の大名代官等の名前は、毎 年出版の武鑑、今でいへば職員録の終に出てゐるが、何といつて も関所といへばすぐ箱根を聯想する。箱根は小田原の大久保家の 支配で、関所跡は今でも立派に保存されてゐるが、東海道には新 居にも関所があつて、吉田の松平家の支配であつた。それから中 山道には碓氷と福島とに関所があつて、前者は安中の板倉家、後 者は代官の支配であつた。  関所を設けた目的は戦国時代のやうに関税を取る目的ではなく、 往来人を取締るのにあつて、「入り鉄砲に出る女」といふ文句が ある。大名の妻子は人質の意味で江戸に置かれてある。これが江 戸を逃出してはならぬから箱根では東から西へ出る女を厳重に調 べた。「入り鉄砲」といふのは、鉄砲が江戸に入ることは甚だ物 騒である。そこで新居の関所では殊に西から東に向ふ鉄砲を調べ た。箱根には大久保家から派遣された番頭・番士・横目役・間の 者・足軽小頭・足軽等総計二十人ばかりの人数が詰めてゐる。然 し関所には男ばかりではなく、番女または改め婆といつて雇の女 が居る。関所を通過する婦人の身体検査をするのは番女で、髪の 毛の中へ手を入れたり、乳の上を触つたりする。番所は明六ツに 開いて暮六ツに閉ぢる。夜間通行の場合は老中の証文を要する。 宿継御用状荷物等は宿々問屋共の証文を添へれば通す。関所破り は磔の重刑に処せられた。

 


「江戸と大阪」目次/その64/その66

「大塩の乱関係論文集」目次

玄関へ