Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.6.25

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その67

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第四 江戸大阪間の交通
  一 街 道 (5)
管理人註

問屋場 人足の員数 宿駅に対す る保護

 宿駅には問屋場といふものがあつて人馬の継立をする。これを 駅伝といつて古くから制度が備はつてゐた。徳川時代では慶長六 年東海道の由比程ケ谷両宿、慶長七年岡部新井両宿に下された伝 馬の定書が一番古いものであらう。それから段々発達して寛永十 年(一六三三)問屋給米継飛脚給米の制が定められ、その前後に おいて各駅の地子が免除となつた。問屋場は各宿必ずしも一ケ所 に限らず、品川や小田原のやうに二ケ所あるのもあつて一定して ゐない。問屋場の役人には問屋・年寄・帳付・人足指・馬指・迎 番などがある。問屋は人馬の指引・休泊の世話・その他往還に関 する一切の事務を総轄する役目です。元来相応資産のあるものが 選ばれ、また幕府から問屋給米を与へられたが、後世になると中々 それでは引足らず、大分苦しかつたやうです。年寄は問屋の助役、 帳付は書記、人足指馬指は人馬を割当てる役、また迎番といふの は小使です。  問屋場の支配する人馬の数は、東海道の宿々では百疋百人とい つて伝馬百疋と人夫百人とを備へ、中山道はその半分、日光・甲 州・奥州道中は更にその半分である。この常備の馬と人夫とは御 朱印及び老中勘定奉行等の証文に従つて、宿々からその数だけの 人馬を差出して、次の宿まで送るのである。賃銭をとる分ととら ぬ分とがある。馬につける荷物は四十貫目、人足一人の持つ荷物 は五貫目を標準とし、人馬の賃銭は何宿から何宿まではいくら\/ と決定してゐる。但し徳川氏二百五十年を通じて一定の賃銭とい ふことはあり得べからざる事で、時代々々に適宜の割増をしてゐ る。  人馬の賃銭は一定し、而も公用で往来する者にはすべて無賃の 人馬を出すのだから、幕府はそれに報いるため、宿駅の地子を免 除し、飼馬料を与へ、問屋給米継飛脚給米を下付する等種々保護 を与へてゐる。一例を挙げると品川宿では伝馬百疋に対して一万 坪の地子を、飼馬料として五千坪の地子を免除せられ、問屋給米 として七石、継飛脚給米として二十六石九斗を年々給はつてゐま す。以上は定式の保護で、その他臨時に助成金を交付し、火災等 の事変に際し金穀の貸下を許した例が色々見えます。延宝二年の 伝馬宿拝借銭覚によると、東海道の宿駅及びその延長の五宿の拝 借銭高は六万千四百貫文、中山道は二万七千六百五十貫文、その 他日光并びに奥州海道・甲州海道・佐倉海道の分を合し、拝借銭 高合計十一万六千七百貫文、此金二万九千百七十五両に達し、右 金額を延宝五年より向ふ十ケ年間に年賦を以て返納せよと命じて ゐる。当時江戸の大伝馬町南伝馬町は銭一万貫文づゝ、小伝馬町 は銭五千貫文を借用してゐますが、大伝馬町と南伝馬町とは毎月 半月がはりに朱印人馬賃人馬を出し、別に城内の用度及び雑物の 運送は小伝馬町でこれを引請けた。四谷伝馬町は大伝馬町補助の ために、また赤坂伝馬町は南伝馬町のために与へられた地面で、 両町から毎歳三百両づゝを貢いでゐます。拝借銭は決して延宝二 年だけではありません。

 


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