Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.6.26

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その68

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第四 江戸大阪間の交通
  一 街 道 (6)
管理人註

大名の通行 助郷

 文政四年に諸大名が打声に参勤するにどの街道を通るかと調べ た所、東海道によるもの百四十六頭、中山道によるも三十頭、日 光道中によるもの四頭、奥州道中によるもの三十七頭、岩槻道に よるもの一頭、甲州道中によるもの三頭、水戸道中によるもの二 十三頭、練馬から板橋へかゝるもの一頭、この外定府の分二十三 頭とある。これ等の大名が使用し得る人馬は家格や石高によつて 相違するが、十万石以上の大名は東海道なら当日并びに前後の内 一日、都合二日五十人五十疋で、中山道なら当日并びに前後一日、 都合三日二十五人二十五疋づゝとある。両道とも十万石以上の大 名が一頭通ると、その常備人馬の半数を二日乃至三日間とられて しまふ。  大名の往来の外、二條大阪在番将士・朝鮮信使・宇治の茶壷の 道中等、随分宿駅の煩をなしたものが多かつた。二條城大阪城を 警護に行く武士の鎧櫃に、鎧でなくて鍋釜が入つてゐたとか、  シタ             カブリモノ 「下に下に」といふ声に、急いで冠物を取つたら、それが王公貴 人でなくて茶壷であつたとか、可笑しい話が色々あります。  交通の頻繁につれて、一定の人馬では到底要求に応じきれぬ。 限りある人馬を以て限りなき要求に応ずることは困難である。そ     スケガウ のために助郷の制が起つて来た。助郷は宿駅の常備人馬不足の際、 臨時に人馬を課せられる附近の村々をいふ。最初は宿駅を中心と して三里以内の村々に課したが、それでも足りないので五里十里 を隔てた村々に課するやうになつた。明暦頃には既にこの制度が 成立してゐる。本来助郷は高百石につき二人二匹といふ定で、賃 銭の中、宿の問屋で若干文を刎ね、残りは本人に交付する筈であ る。賃銭は規定通りで極めて安い。宿附の人馬は軽い容易な仕事 の方にまはり、重くて難渋な仕事を助郷の人馬へまはす。それか ら助郷から差出す人馬の数も、いつか規定を超え、正徳頃には二 人二匹が三四匹五六人に増してゐる。田植とか苅入とか忙しい場 合に百姓の本職を捨て、安い賃銀で難渋な仕事に働かせられるの は迷惑千万である。殊に五里十里先から呼出されては、往復に無 益な時間がかゝる。差引すると若干文の小遣銭を持出して、無銭 で働いて草臥れて帰ることになる。そこで人馬を差された村の方 から、人夫一人に銭七百文、馬一匹に銭一貫文といふやうに涙銭 を出して請負を問屋へたのむ。問屋ではそれで代りの人馬を雇入 れ、残りは宜しく着服する。なか\/弊害が多かつた。幕府は全 然これを知らぬ訳はない。知つて居ながら思ひ切つた改革の出来 なかつたのは、これを廃止すれば、第一に参勤交代が出来なくな る。幕府の命脈を維持するに必要な参勤交代が出来なくては大変 であるから無理にも続けた。助郷の制度が廃止せられたのは実に 明治四年である。

 


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