Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.6.27

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その69

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第四 江戸大阪間の交通
  一 街 道 (7)
管理人註

本陣脇本陣 浪花講と三 都講

 宿駅の公用旅宿を本陣といふ。一方の入口は門構となり、士分 以上の者でなければ宿泊は出来ぬ。本陣の外に脇本陣がある。本 陣が満員の時の準備だ。本陣脇本陣の軒数は宿によつて相違し、                          シタヤド 小田原の如きは四軒づゝあつた。随従の人員が多い時は下宿とい つて普通の宿屋へまはす。本陣脇本陣へ宿泊する時は大名なら木                         セキ 札、その他は紙札を張り、何誰様御宿と書く。これを関札といふ。               キセン 賄方は今日とは大いに違ひ、木銭といつて飯を焚くに必要な薪代 を支梯ふばかりである。これは昔食料を持参して施行した遺風で す。木銭は元和三年の規定に一人四文、馬は八文、薪柴を用ひな いものは半分を減ずとある。後には段々殖え、文政二年には主人 一人三十五文、召仕一人十七文、馬一匹三十五文になつた。木銭 米代といつて、木銭の外に飯米代を支払ふのもある。それからも う一歩すすんで旅宿の方で一切を賄ふやうになつた。さうなると 旅籠料の増すのは当然で、慶応二年品川宿の届書に紀州様御家中 泊上下共五百文休上下共二百四十八文とある。その頃普通の旅籠 料は上泊一貫文、中泊八百四十八文、下泊七百文とある。紀州家 の宿泊料は御三家御三卿の中で一番高いといひながら、相対旅籠 の一半である。講武所方・別手組などは昔の通り木銭米代で泊つ たといへば、宿屋の迷惑は察すべきである。いづれにせよ公用旅 宿の主な収入は木銭旅籠料でなくて祝儀銀目録銀にあつたといへ ます。  一般人の宿泊は所謂相対旅籠で頗る自由であつた。東海道名所 記を見ても膝栗毛を見てもよくわかる。「岡崎女郎衆」「三島女 郎衆」は言はずもがな、多くの宿屋には飯盛女なるものがゐた。 名前は給仕の女中であるが、実は売女であつて、一軒に二人以上 は許されぬ。風俗を紊すといふので道中奉行から幾度か法令を出 して取締つて見たが一向效力がない。そこで文化元年(一八〇四) に大阪の玉造の松屋甚四郎松屋源助の両名が浪花講を発起し、三 都並びに街道筋の宿屋の有志を加入せしめた。浪花講の看板の出 てゐる旅籠屋は安全である。怪しげな女中などは居ないといふこ とを標榜した。その後天保元年になつて大阪日本橋の河内屋茂左 衛門江戸馬喰町の苅豆屋茂右衛門両名で三都講を組織した。浪花 講同様の趣旨である。旅人は本来一夜泊で病気雨天その他の理由 なしに二三泊することは許されない。一人旅は宿屋の方で嫌つた が出来ない訳ではなく、宿帳の記載は不完全であつた。     浪花議定宿帳の表紙の裏に次の様な箇条書がある。  一 御法度之懸勝負被成候御客、宿いたし不申候事。  一 遊女買被成候御客、宿いたし不申候事。  一 宿にて酒もりいたし、高声にて騒ぎ被成候御客、宿いた    し不旨侯事。  一 御用向相済、不用にて逗留被成候御客、宿いたし不申    候事。  一 定宿之心得者、御客臥れ候節、亭主火用心心見廻、    一間々々夜半行灯灯火きえざるやう、油つぎ方沢山    にいたし置候事。

 


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