Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.6.28

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その70

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第四 江戸大阪間の交通
  一 街 道 (8)
管理人註

継飛脚 三度飛脚 三都定飛脚 宰領

 上代の飛脚は徒歩でなく、多くは乗馬であつた。それが後世に なつて、馬に乗る分を早馬、徒歩の分を飛脚といふやうになつた。 初は急を遠方に通ずるため特派した人夫を飛脚といひ、書状のみ を持参したが、後には一個の営業として書状・荷物・金銭を遠方 に持参するものを飛脚と称するに至つた。  幕府が継飛脚のために給米の制を立てたことは前に一言した。 継飛脚、委しくいへば問屋賄継飛脚といふのは、諸国に下す公用 の書類を甲宿から乙宿へ速達することをいふ。継飛脚の持参する 書状を御状箱といふ。一人は極めて小形の葛籠に御状箱を入れ、     ヱ フ 御用の会荷(札)をつけ、これを肩にし、一人は御用と書いた高 張提灯を掲げて疾駆する。往来の者はこれに出逢ふと途を左右に さける。川止があつて、それがあけた時、第一番に渡すのはこの                           トキ 御状箱である。御状箱の速力は江戸から大阪までが四十八刻京都 までが四十一刻、一刻は今の二時間に当るから江戸大阪間に四日 かゝる勘定です。然し無刻(最急)となると京都まで二十刻乃至 三十刻といふことです。この制度は幕末に至るまで変らなかつた。 幕末になつて近海を自在に乗廻はす外国船の様子を一々継飛脚で 通知する、その繁忙と手遅れとは想像するに余ります。  民間の飛脚業の起原もやはり武家から起つてゐる。大阪や京都 に在番する人々が、東海道宿々の問屋と相談し、自分の家来を飛 脚とし、問屋をして宿泊給与の便を計らしめ、毎月三度行程日数 八日を限つて江戸に行かしめた。これが三度飛脚の起原で、利に さとい大阪人は大阪在番諸士に依頼してその家来分となり、その 法被を着し、双刀を帯し、伝馬の継立を問屋に要求し、一般の書 状小荷物の逓送を営業とした。それが段々盛んになり、寛文三年 (一六六三)遂に三都定飛脚の組合が出来た、これを三度定飛脚 ともいふ。この飛脚は各宿問屋場で一回に伝馬三頭の継立を許さ れ、大阪出発日を毎月二日・十二日・廿二日の三回と定め、飛脚 問屋抱宰領の名前を以て往来した。在番将士の名義を借用したこ とは、これで終り、爾来在番諸士の通信も、一般町人のそれと同 じく、飛脚問屋が取扱ふやうになつた。当時の飛脚問屋は大阪四 人・京都三人・江戸七人であつたが、宝暦元年(一七九一)の調 査には、大阪十二人・京都十六人・江戸九人に殖え、安永二年 (一七七三)の調査には大阪と京都とは三人づゝを減じ、江戸は もとのまま九人である。江戸の飛脚問屋の屋号に大阪屋・山田屋・ 京屋・山城屋・伏見屋・泉屋など上方の地名を名乗つてゐるもの が多い所から見れば、彼等の租先は上方出身であると考へられる。 尚宰領は京大阪の者に限つてゐた。人員は大阪十五人、京都十五 人、月一回刻調べといつて、宰領が遅怠なく仕事に従事してゐる か否かを宰領中の年輩の一人が調べて歩行いた。

 


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