Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.3.5

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その8

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第一 市街の発展
  一 江 戸 (6)
管理人註

元和二年の 町割 大名屋敷の 割渡 最古の江戸 絵図 明暦の大火 大火後の町 割

 元和二年(一六一六)家康が薨去したので、家康に仕へてゐた 人々は駿府を引払つて江戸に帰住することとなつた。そこで神田 山を掘割り、従前平川の方へ流れて居つた江戸川小石川の水を神 田川へ落し、小川町・猿楽町・駿河台に宅地町地を作つた。これ は単に町を開くといふ意味の外に、江戸城の外濠として防禦の用 となす意もあつたものと思はれる。  妻子を江戸に置いたのは、最初は外様大名のみであつたが、寛 永十一年(一六三四)には譜代大名も皆妻子を江戸に移すやうに 命ぜられ、遂には旗本にもその風が及んだ。その頃までは大名と ても一々邸宅を賜はれるにはあらず、未だ邸宅なく、同姓又は親 類の中に居るものもあつたし、まして旗本には邸宅のないものが 多かつたから、処々へ新地を開いてこれを割渡した。かく大名旗 本の妻子の江戸住と共に、之に附属せる召仕小者の類は一時に増 員し、従つて日用品を供給する商家は著しく増加したであらう。 寛永十三年(一六三六)の総曲輪築造も亦大工事で、屋敷・寺院・ 町家の移転も多少行はれた。江戸の絵図としては寛永年間に出版 せられたものが一番古い。それ以前の年代の絵図は後世から作つ たもので、決してその当時のものではない。  かく慶長以来次第に発展した江戸は、明暦三年(一六五七)正 月十八日及び一九日両日に亘る大火のため焦土となつた。十八日 は本郷丸山の本妙寺から、十九日は小石川の伝通院前から出火し、 両方相合して海辺まで焼けた。その被害を挙げると、本丸・二ノ 丸・三ノ丸皆焼落ち、万石以上の屋敷五百余宇、旗本屋敷七百七 十余宇、寺社三百五十余宇、町屋四百町、片町八百町、死者十万 七千四十六人に達せりといつてゐますが、この数字は何処まで信 用が置けますか。両国の回向院はその名の示す如く、この時の焼 死者の遺骸を埋め、亡霊を弔ふために建てたものですが、同院の 過去帳には死者の数二万二人とあるさうです。この外にも焼死者                          ムサシアブミ が沢山あつたと推察せられる。この明暦の大火の顛末は武蔵鐙二 冊に委しく出てゐます。  然しこの大火によつて市区改正が大規模に実行され、新しい江 戸が出来たことは、丁度大正の大震火災が新しい東京の建設を促 したやうなものです。幕府は大目付北條安房守氏長新番頭渡辺半 右衛門綱貞両名に命じ、城中並びに府内(市街)の地図を作らし めたとあるのは、つまり両名を新江戸の設計者に任じた意味と解 して宜いでせう。先づ大名旗本の宅地引替と寺社の移転とが盛ん に行はれ、大名には非常の節立退場として下屋敷を給ふこととな り、芝浅草両新堀の開鑿、神田川の拡張、不用溝渠の埋立、京橋・ 鉄砲洲・赤坂・小石川小日向方面に於ける新築地、二ケ所の火除 地、十八ケ所の広小路、また道路の整理拡張等頗る目覚しいもの              ヰナカマ                キヤウマ があつた。日本橋の大通が田舎間十問、本町の大通が京間と定つ たはこの時からです。京間といひ、田舎間といひ、同じ一間では あるが、京間の方は今の曲尺で六尺五寸田舎問の方は五尺八寸で す。江戸の町割が古くは上方の町々と同様京間で行はれ、その後 田舎間で行はれたため、かやうに二通りの尺度を使つたものでせ う。

 


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