Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.7.14

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その74

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第四 江戸大阪間の交通
  二 廻船 (1)
管理人註

海運の発達 奥羽の海運 菱垣廻船

    二 廻船  足利氏の末から徳川氏の初に亘つて、日本の海運は非常に発達 した。海外渡航の免状即ち御朱印を出した控の帳面、また各所に 現存してゐる羊皮紙の海図を見ても直ちに分かる。それが寛永年 間海外渡航が禁止せらるゝに及び、日本は鎖国の状態となり、外 国との交通は全く衰へてしまつたのである。然し一方内地の海運 業は案外に発達した。さうしてその発達を促した原因は第一に米 の運送にあると思ふ。  西国の諸大名は瀬戸内海を経て大阪に蔵米を輪送する。幕府は 御城米を奥羽から江戸に運送する。瀬戸内海の航路は昔から開け て安全であるが、奥州の方の海運は寛文十年(一六七〇)に河村 瑞賢が奥州の阿武隈川の川口荒浜から船を出して南へ下り、房州 から相模の三崎、豆州の下田を経、西南の風を待つて江戸に入る 工風をしてから開けだした。昔時は銚子の口から川舶に乗りかへ、 利根川を遡り、関宿行徳を経て江戸へ入つたのである。羽州の米 も瑞賢の考で、寛文十二年最上川を利用して酒田へ米を集め、そ こから廻船へ移し、北海を一廻りして下ノ関に着き、瀬戸内海を 通り、紀州沖を廻つて遠州灘を乗切り、下田を経て江戸へ入るこ とゝした。この長い航路を無事に乗切るため、下ノ関で導船を 出し、志州の菅島で火を焚いて方角を知らせることにした。昔は 敦賀から陸路江州に出で、湖水を渡つて大津に出たのである。瑞 賢が奥羽両国の海運を開いてから、公私の運送に便宜を与へたこ とは莫大であつたと思ふ。勿論大阪江戸間の海上交通は瑞賢以前 からあつた。  文政十二年(一八二九)大阪菱垣廻船問屋の富田屋吉左衛門が 町奉行所に差出した書類によると、元和五年(一六一九)泉州堺 のものが紀州から二百五十石積の廻船を借受け、大阪の荷物を積 んで江戸へ廻した。それが 菱垣廻船の起源で、それから寛永年 間になつて、大阪にも数軒の廻船問屋が出来、引続いて伝法にも 問屋が出来、これらは何れも二百石から三四百石の船を使用し、 これを小早と号したとある。万治元年(一八五八)東海道島田宿 から上つた訴状に、以前は江戸往の荷物を陸を下した所、近年は 大阪または桑名から船で積廻し、海道を商人荷物が一向通らない。 荷主の勝手ですること故是非ないが、これでは問屋共が立行く訳 はないと愁訴してゐます。

 


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