Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.7.16

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その76

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第四 江戸大阪間の交通
  二 廻船 (3)
管理人註

樽廻船 樽廻船問屋 株 菱垣廻船問 屋株 船頭水主 荷物輸送の 順序

 然るに享保十五年(一七三○)になつて酒荷物だけが分離した。 これはつまり大阪伝法両地廻船問屋の競争の結果で、伝法の廻船 問屋が西ノ宮・兵庫・灘目・伊丹・池田等の酒造家の後援を得て、 この挙に及んだのである。酒荷を積む船を樽廻船といふ。  享保九年正月から享保六年正月に至るまで、毎月大阪から江戸 へ積み出した十一品の統計表がある。米・味噌・炭・薪・酒・醤 油・油・魚油・塩・木綿・繰綿の積高で、同年間に味噌と薪とは 一つもないが、酒樽の積方は大抵一年二十万樽内外で、一番多い 時が二十六万樽、一番少い時が十七万樽であつた。かやうに酒樽 の輸送が盛んになつたので、樽廻船が遂に独立することとなつた のである。但し樽廻船は早廻を主とするので、酒荷物以外にも積 込を依頼するものがあつて、菱垣廻船問屋との問に紛争が継続し た。  それから四十年を経、安永元年(一七七二)になつて大阪の樽 廻船問屋八軒は江戸積酒諸荷物廻船問屋として株名目を得、西ノ 宮の樽廻船問屋六軒は同年、大阪菱垣廻船問屋九軒は翌年株式と なり、積込荷物を一定し、酒荷物は樽船一方積、米・糠・藍玉・ 灘目素麺・酢・醤油・阿波蝋燭の七品は菱垣樽両積とし、その他 は菱垣一方積ときめた。当時樽廻船百六艘、菱垣廻船百六十艘と いふ。  船頭水主は今の言葉でいへば船長及び水夫である。船頭は船主 を居船頭といふに対して沖船頭ともいひ、廻船に座乗して船を操 縦する。船頭は荷物の輸送について全責任を負ふのみか、荷物の 積込水揚、また場合によつては売捌方を引請ける。従つて充分荷 主の信頼を博するはど身元確実技倆優秀のものでなくてはならぬ。  荷物を集めるのは廻船問屋の仕事で、荷主へ船名・船頭名・出 発月日等を記した船付を廻し、荷主は荷物に送状をつけて問屋に 渡す。菱垣船は舶付を出してから十一日間に荷物を集め十二日目 に出帆する。その送状の荷数を一紙に写し、廻船問屋が捺印して 船頭に渡す。これを手板といふ。つまり全部の積荷に対する証券 で、証券に記載してあるものが一品でも紛失すれば船頭の落度で ある。江戸廻の船は皆下田港に立寄り、同地の御番所で手板改を 請ける。尤も下田の御番所は享保五年に浦賀へ引越したから、爾 来は浦賀の御番所で検査を受けた。さうして愈々江戸へ着くと、 江戸の廻船問屋が船頭と立会の上で荷物を宛名人へ引渡す。これ が普通の順序であつた。

 


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