Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.7.23

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その82

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第四 江戸大阪間の交通
  二 廻船 (9)
管理人註

三橋会所の 資金 会所の廃止 と茂十郎の 十組頭取取 放 菱垣一方積 十組・廿四 組の解放 九店十三店

 三橋会所の貸付金の内へ幕府から冥加金を貸下げることは、文 化六年八月第一回の冥加金を納めた時、三ケ年間据置四ケ年目返 還の條件でその半額を貸下げ、同年十月残半額を貸下げてゐる。 但し翌七年及びその以後の貸下回数や期日については委細は分り ませんが、三橋改架修繕の褒美として、室町三丁目に町屋敷を下 されてゐますから、その地代も勿論会所の収入であつたに違ひな い。兎に角三橋会所の資金は、幕府の貸下金三橋手当積立金及び 差加金の三口で、文化八年に凡そ七万両となつた。  かやうに大金が集まると、そこに不正が生じて来る。真面目に 会所で事務を執らず、寄合だといつては坂本町の料理茶屋伊勢屋 太兵衛方へ赴き、酒食を事とする。一ケ月の払が二十両から百両 位で、同店では十組以外のお客は断つた程である。この一事を以 て万事を知るべしで、茂十郎の上納金遣込や、室町拝領屋敷取計 方の不正が暴露し、文政二年(一八一九)六月三橋会所は遂に廃 止となり茂十郎は町方御用達及び十組頭取を取放たれてしまつた。  十組のことは爾来町年寄の所管となつたが、一方菱垣廻船は樽 廻船に圧迫せられて漸次その隻数を減じ、文政八年(一八二五) には纔かに二十七艘となつた。そこで十組両行事極印元から江戸 町奉行に向つて菱垣一方積を出願し、現在の二十七艘の外に紀州 家領分の廻船三十艘、その他定雇船新造船を合し、七十八艘を以 て航海に従事したいと訴へ、江戸町奉行から大阪表へ照会の上、 愈々天保四年(一八三三)になつて菱垣一方積が許可せられた。 即ち以前規定せられた両積七品の外、鰹節塩干肴問屋及び乾物問 屋の荷物は両積を許すが、成るべく菱垣船に積み、また御膳御菓 子御用砂糖納人、御次菓子納人の仕入砂糖十万斤限り両積を許し、 それらの両積荷物中樽船積の分は送状を二通認め、江戸着の上、 菱垣廻船問屋にて一応検査した上、樽廻船問屋渡すベし。畢竟菱 垣船の衰微は荷不足に依ると雖も、その根原は大行事惣行事その 他重立ちたる者の心掛よろしからず、船法弛廃し、出帆遅滞せる により、諸組共菱垣船を疎んずるに至れるものであるから、この 趣を会得し、十組・廿四組・両地廻船問屋共東西相一致して菱垣 船の再興を計るべしと申渡されて居る。  天保十二年(一八四一)になつて諸株諸仲間の廃止が行はれた。 その真先に目指されたのがこの江戸十組問屋で、問屋共に不正の 趣相聞えるにつき、以来冥加金(一万二百両)上納に及ばず、菱 垣樽船積荷物の儀も向後是迄の規定に拘はらず荷主相対次第便利 の方へ積込むべしとある。株仲間の廃止は物価の引下を目的とし たもので、大阪の廿四組・江戸の十組の間で物価を随意にすると いふ議論は当時盛んにいはれ、藤田東湖などもさう唱へてゐる。 最初町奉行所で杉本茂十郎に冥加金の上納を許す時にも、十組冥 加金の儀は諸色直段に拘はる儀はないかと尋ねた。その節茂十郎 の返答に、冥加金高の割合は銘々の商高の割合に乗じて甲乙をつ けたので、銘々の商高に比べて見れば極めて軽少で、諸色の値段 へ割懸けるやうな不正は決してないとあつた。然らば銘々の商高 に対してどういふ割合になるかと反問せられ、大急ぎで調べてー ケ年総商元高代金凡五百万両と見積り、割合算用書を差出した。 なるほど冥加金は商高に比べては僅少で、冥加金を値段に割付け るやうなことはないであらうが、冥加金を納めて得た特権、即ち 江戸積の貨物は十組の外で取扱ふことが出来ぬといふのに乗じて 施し得る私曲、それを東湖などは攻撃したに相違ない。  株仲間の廃止は思ふやうな結果を得なかつた。素人直売買勝手 次第といふことは営業の独占を解いたのであるが、これがため却 つて需給の関係が一方に偏して、分配が甘く行はれず、物価が乱 高下を生じた。その外色々な不都合が生じたので、嘉永四年(一 八五一)に諸問屋再興となり、文化度以前の制に復し、冥加金だ けは依然納入に及ばずといふことになつた。

 


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