Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.10.7/2004.3.15修正

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大塩の乱関係史料集目次


『巷 街 贅 説』 (抄)

その19

『近世風俗見聞集 第4』国書刊行会 1913 より


◇禁転載◇

○大坂騒動 (17)

右は、濃州加納城主永井肥前守領分に有之候書面写、

 洗心洞略伝、

大塩平八郎、氏は源、名は後素、其人となり漂白を好み、気質衆人に異なり、言語方正、胸中洒落、小心大胆、文武を兼備せり、少年より兵書を座右にし、且武衛流の炮術を極め、また王陽明をしたひ、議論文章に工みなり、増補孝経彙註、儒門空虚集語、洗心洞箚記等を著述し、今世に行はる、都て周旋処置、近藤貞固に紡彿たり、嚮に高井城州浪華の町奉行たりし時、かれを見出して吟味の係となしければ、即日に妻を離別して、後曾て婦女を近付ず、奴僕をして薪水をとらしめた り、其故は若し妻ある時は、其ちなみもて訴訟の事に頼を容るゝものあらんには、百に一二は聞届る事もあらんなれば、おのづから勤務の妨となるは必定なれば迚、久離せりと聞ゆ、其時妻の衣服調度の料として、金三十両を出し与ふ、妻は仰天して歎き悲しめ共、迚もかく迄決行せらるゝうへは、言語を費すとも詮なしとあきらめて、なく\/其言にしたがひしとぞ、又文政の頃耶蘇の法京摂に行はるゝ時、昼夜の差別なく、肝胆を砕きて穿鑿をとげ、明白厳重に裁断せし始末、実に人の及ぶべきにあらず迚、厚く賞与を蒙りしとぞ、(此の時班をすゝめられて御譜代になされ、白銀十枚を賜る)此事人の口碑に残れり、後高城州職を転ぜられければ、平八郎も務を辞して、家督を格之助に譲り、年未四十に足らずして閑人となり、文武の道場を開き、従学する者多しといふ、扨此度の一條は何たる訳歟知ざれ共、是全く狂気を発していたす所ならん歟、洗心洞は平八郎が別号なり、

 天保八年丁酉二月廿八日 烏有翁誌


『巷街贅説』目次/その18/その20

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