大塩平八郎は追々に馳集るもの二百余に及びたれば、今はとて天満橋
を渡らんとせしに、早くも橋板を引きたれば、河の北岸に沿ふて却掠
し行き、天神橋を渡らんとすれば、爰も早や過半取外したるに、卑怯
なる敵の振舞やと、更に転じて難波橋に向ひ、橋板を絶たんとなし居
る数名の杣共を追散らして、此橋を打渡り、北浜二丁目なる高池三郎
兵衛の家を破壊し、同一丁目の亀屋市十郎の宅を蹂躙して金穀を蒔散
らし、今橋二丁目に進んで、鴻池善右衛門の家にて兵粮を認め、金穀
を掠め取り、夫より同町にて鴻池又次郎、同正次郎、同徳兵衛の家を
破り、高麗橋通りに至りて、三井七右衛門、岩城、島田等を破却し、
平野町に出でて、内田惣兵衛、平野彦兵衛、茨木屋万太郎、米屋喜兵
こぼ
衛、炭屋彦五郎等の家屋倉廩を毀ち、悉く放火して、大坂市の四分の
一を灰燼に帰せしめたり、
ほとり
大塩格之助は平野橋の頭にて、ゆくりなくも堀伊賀守の勢と出合ひ、
開戦しけるが、衆寡敵せず、退いて平八郎の一隊と合し、跡部山城守
の備へに突入し、いかで奸吏の生首を得て、軍陣の血祭りにせんとて、
縦横無尽に切廻りたれば、流石の大勢敵し兼ねて、右往左往に散乱し
て、内淡路町まで敗走しけり、
たま\/
会々遠藤但馬守の勢来りて、山城守の敗軍と合して、爰を先途と防戦
なしければ、大塩方の軍は此の新手に駆立られて、負傷者少からず、
あまつさ
剰へ梅田源左衛門は、玉造与力坂本鉉之助の為に銃殺せられたりけれ
ば、士気大に組喪して大敗北となり、平八郎も今は支ふるに由なく、
一旦淡路町まで引揚げ、人数を点せしに。僅に八十名に過ぎず、今
は我事是までなりと、平八郎は一同に解散を命じ、再会を約して、夜
に紛れて思ひ\/にその跡を暗まし、何処ともなく落行ける、
事平ぎて後、城代より貧民の此災厄り罹りたるものを救助せんの布告
を発し、大に倉廩を開いて米穀を恵与し、道頓堀の劇場及天満橋の南
北と天王寺村の元蔵跡に、各一ケ所救護場を設けたりければ、来つて
救を乞ふもの三千百二十余人の多きに上りたりき、市中の豪商等も之
が救助に尽力し、四十余名の有志者より、金二万七千三百貫文、米八
十余俵を義捐せりとぞ、
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