Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.7.24

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「大塩後素」 その10

『古今名誉実録 合本下巻』
春陽堂 1895  より転載

◇禁転載◇


管理人註

大塩平八郎は追々に馳集るもの二百余に及びたれば、今はとて天満橋 を渡らんとせしに、早くも橋板を引きたれば、河の北岸に沿ふて却掠 し行き、天神橋を渡らんとすれば、爰も早や過半取外したるに、卑怯 なる敵の振舞やと、更に転じて難波橋に向ひ、橋板を絶たんとなし居 る数名の杣共を追散らして、此橋を打渡り、北浜二丁目なる高池三郎 兵衛の家を破壊し、同一丁目の亀屋市十郎の宅を蹂躙して金穀を蒔散 らし、今橋二丁目に進んで、鴻池善右衛門の家にて兵粮を認め、金穀 を掠め取り、夫より同町にて鴻池又次郎、同正次郎、同徳兵衛の家を 破り、高麗橋通りに至りて、三井七右衛門、岩城、島田等を破却し、 平野町に出でて、内田惣兵衛、平野彦兵衛、茨木屋万太郎、米屋喜兵               こぼ 衛、炭屋彦五郎等の家屋倉廩を毀ち、悉く放火して、大坂市の四分の 一を灰燼に帰せしめたり、           ほとり 大塩格之助は平野橋の頭にて、ゆくりなくも堀伊賀守の勢と出合ひ、 開戦しけるが、衆寡敵せず、退いて平八郎の一隊と合し、跡部山城守 の備へに突入し、いかで奸吏の生首を得て、軍陣の血祭りにせんとて、 縦横無尽に切廻りたれば、流石の大勢敵し兼ねて、右往左往に散乱し て、内淡路町まで敗走しけり、 たま\/ 会々遠藤但馬守の勢来りて、山城守の敗軍と合して、爰を先途と防戦 なしければ、大塩方の軍は此の新手に駆立られて、負傷者少からず、 あまつさ 剰へ梅田源左衛門は、玉造与力坂本鉉之助の為に銃殺せられたりけれ ば、士気大に組喪して大敗北となり、平八郎も今は支ふるに由なく、 一旦淡路町まで引揚げ、人数を点せしに。僅に八十名に過ぎず、今 は我事是までなりと、平八郎は一同に解散を命じ、再会を約して、夜 に紛れて思ひ\/にその跡を暗まし、何処ともなく落行ける、 事平ぎて後、城代より貧民の此災厄り罹りたるものを救助せんの布告 を発し、大に倉廩を開いて米穀を恵与し、道頓堀の劇場及天満橋の南 北と天王寺村の元蔵跡に、各一ケ所救護場を設けたりければ、来つて 救を乞ふもの三千百二十余人の多きに上りたりき、市中の豪商等も之 が救助に尽力し、四十余名の有志者より、金二万七千三百貫文、米八 十余俵を義捐せりとぞ、

豪商等所在地 池か


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