Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.7.17

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「大塩後素」 その3

『古今名誉実録 合本下巻』
春陽堂 1895  より転載

◇禁転載◇


管理人註

天保七年丙申の春より夏に至りて、霖雨連月晴れず、河水澎漲して田               な へ          あまつさ あ き 畑為に水底に没し、植付たる苗禾、皆実らず、剰へ晩秋に至りては大 風乱雨益々惨憺の光景を呈して、人民皆食を得るに処なく、飢饉既に 至つて貧民の困究言ふばかりなし、初冬の候に至つては、一石の米に て価二百目余に上り、饑寒並び至つて餓野に満つるの惨状を現出せ んとす、後素大に是を慨して、日夜憂心苦慮、その救済の方法を講究                   かんりん しけれども、力微にして事及ばず、今は官廩を開いて貧民を救ふの外 はあらじとて、或日養子格之助(同役西田善太夫の弟)をして東町奉行 跡部山城守に此事を懇願せしむ、山城守是を諾して、城代土井大炊頭 に申請し、其許可を得て速に執行せんと言ひければ、格之助大に喜び 帰りて、後素に此事を語り、以て命の下るを待つ、 旬日にして報遂に至らず、後素大に怪しみて、格之助をして再び山城 守に此事を促がさしむれば、山城守は頃日公務多端なりしをもて、未          いとま      じんぜん だ城代の旨を請ふの遑あらず、荏苒今日に到りぬ、今四五日の中にこ そ必ず実行すべければ、今暫し猶予されよと答へて帰したり、後素は 是を聞て長歎なし、大にその緩慢にして、民の究苦を察せず、牧司の   むな 職を空ふするを憤ほりしが、詮方なくて、亦四五日を待ちけれども、                          もと 奉行所にては、敢て救恤せんの様子もなければ、後素は固より格之助 も不審に思ひ、亦もや山城守に此事を督促しけるに、山城守は気色を 損じて、さればとよ、御身に対しては気の毒なれど、実は此程城代土 井大炊頭に就き施恤米の儀を願ひ出しに、城代の意見にては、 上様 来春は御退隠遊ばされ、御代替りの大典を挙行せらるゝ都合なれば、 自然費用多端にして、倉庫非常の米穀を要するを以て、江戸表より当                         ふりん 地の在米を廻送すべきよし御沙汰頻りなれば、迚も府廩を空しふすべ きにあらず、今春来の凶作にて、来秋の実も覚束なければ、先は賑救 の事思ひも寄らず、夫が為に御役料御合力米に欠乏する如きことあら ば、職務上の落度なるべしとの事、是等の事情を考ふる時は、御身の 意見も道理には思へど、気の毒ながら採用致し難しと、意外の返事に、                               きぜん 格之助も大に驚き、急ぎ立帰つて後素に此事を物語れば、後素は然          あゝ として歎じて曰く、噫牧民の職にあつて、下民の究苦を思はざる一に 此に至る、無常も亦甚しといふべし、此上は迚も公儀の人を恃むべき                             とうたい にあらず、今は平八郎一身を犠牲に供して、目下に逼る究民の凍餒を 助くべしとて、兼てより心腹を打明けたる同組与力庄司儀左衛門を招 き示すに此事を以てし、当地の豪商輩を説いて、金穀を借り、こをも て一時の究を救はんと策決して、即ち二十有余名の同志を募り、此事                                に奔走せんと心を定め、後素先づ大坂第一の素封家鴻池善右衛門を訪        るちん                  そこばこ ふて、所思を縷陳し、同志者二十余名の世禄を抵当として若干の金円 を借用し、以て貧民救与の一端に供せん、との赤心を吐露して語りけ れば、善右衛門も多に其志の切にして民を憐むに篤きを感じ、即刻了                      そし 承致すべきなれども、余り専決がましきことの譏りもあらんかと思は るれば、先づ加島屋、天五、平五などの仲間にも協議致せし上にて、   きつ さ う 早速吉左右御報申上んと云ひければ、後素も大に喜びて、然らば帰邸 の上にて御報をお待申居るなりとて家に帰り、一時を千秋の思ひして 待居たりしに、翌々日に至りて、鴻池善右衛門、天王寺屋五兵衛、平 野屋五兵衛、加島屋久右衛門、同作兵衛、米屋平右衛門、炭屋彦兵衛、 辰巳屋久左衛門、其他数名いづれも同地の豪商と聞えたる人々の連署 を以て、御依頼の儀、至極御尤には候へ共、何分差障ること有之、御                           ことば 調達申し難く候間、悪しからず御承引下されたく云々と、辞を以て断 然拒絶せられたり、後素は意外の又意外なるに驚き、茫然として返書 を手にせるまゝ呆れ果てゝありしが、怫然として憤怒の面色朱を注ぎ、 好し此上は汝等如き腰抜けは頼むまじ、幾百万の財産を有せりとて、 我眼から見れば乞食非人にも劣りし蛆虫奴、今に見よと焦燥しが、思 ふ所やありけん、庄司儀左衛門を呼びて此事を語り、返書を示して、 斯る事はよも町人儕の本意より出ての事にもあるまじと思はるれば、 篤と探索を遂げて玉はれといひけるに、庄司も驚いて、直に了承し、 夫より手を分けて探偵せしに、果せる哉、後素の見違はず、善右衛門        ひとゝなり は最も平八郎の人為を慕ひ、殊に今回の挙に賛成して、翌日某所に豪 商等を集め、此事を伝へて、拙者は如何にも美挙を思ふなれば、卒先 して金五万両を貸出さん所存なり、各々方も相当に御出金ありたし、               ほゞ と発言せしに、何れも同意して略此事に一決せんとしたり、折から米 屋平右衛門独り席を進めて、大塩氏が此挙を企てられしは、決して不 良と申すにはあらねどもと、究民施行の事などは、御城代とか御奉行             たとへ とかの為すべき事にて、仮令声望はいか程高くとも、もと是れ組与力 の大塩氏が首唱者となりて、与力同心を教唆して、些少の禄を抵当と                      を こ して金円を借出し、分を顧みぬ施行沙汰は、嗚呼かましき仕業にて、 必ず名を売り、誉を買はんとの野心に相違あるまじ、さすれば我々に 於て、貸附金などなしたる後にて、町奉行より御咎など受る時は、至                          まか     し つて詰らぬ事なれば、一応町奉行所へ届出で、其指令に委するに如か     じ、と道ひければ、一同も成程然るべき事なりとて、一同連署の上に て、東町奉行跡部山城守へ届け出たりけるに、もと山城守は大塩平八 郎の才能を忌み、名望高きを妬みて、いかにもして其声価を減却し、 其功労を妨碍せんと思ひ居りし事とて、今この訴へに接して、直に大      さき 塩平八郎事曩に養子格之助を以て救恤の儀、再三願ひ出たれど、廩米 欠乏の恐れありとて是を却けたりしが、今亦恣まゝに市民を説き、金 品を借入れて、貧民を賑はさんとするは、畢竟するに、自己の名誉を 売らんとするの私心に外ならず、されば一金たりとも奉行所の指令な きに金円を貸与するものあらば、後日屹度厳科に処すべし、との命令 を下しければ、豪商一同は大に驚き、その譴責を恐れて、さてこそ前 段の辞謝には及びしなりけれ、

石崎東国 『大塩平八郎伝』 その90


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