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矢部駿州、藤田東湖に語りて曰く、人過あるとき、再三反覆これを諫むるは
忠と云ふべし、再三忠告せる上にも、其人不用とて是を憤りて、坐にあり合
へる火鉢などを、其人の面へ投けば、不敬の至極なり、始めは其人を憂ふる
あまりに忠告し、後には其面体へ疵を付けば、安ぞ其人を憂ふるにあらん、
平八郎も始は忠告すけども、用ゐられざるを憤り、叛逆に均しき禍乱を企て
しは、此類なりと、語は東湖随筆に在り。然れども憶ふに彼れ平八郎に在て
は、初より一の跡部某なる者の為めに憂ふるの要ある無し、但だ民衆の安寧
を図る奉行として忠告すれば足り、奉行として忠告する再三、而して竟に聴
納せずんば、是れ奉行の職分にくさゞるもの、路傍の一匹夫たるに過ぎず、
且つや此の者徒らに尊大倨肆濫に人に唾するに於ては、之に鉄拳を加へんと
欲するは人情の然るべき所、火鉢を投ぐる、面体に疵を付くる、亦た何かあ
らん、駿州が彼の奉行の職分に負ける跡部某の為めに、どこまでも懇切を竭
くさゞる可らざるやう考へしは、大なる誤謬なり、平八郎が猛然崛起したる
は当を得たるの事、何の不敬か之れ有らん。駿州は自ら平八郎の疳癪甚しき
ことを明言せり、其の疳癪の甚しきことを知りながら、其の当然の挙を睹て
不敬なりとなす如きに至りては、駿州未だ平八郎の真相を透徹し得ざりしも
のあり。世に疳癪毬といふ者あり、壁に投すれば則ち破裂す、疳癪毬の大な
るものを爆裂弾となす、平八郎は豈是なる莫からんや、爆裂弾の成分を人性
に配するに、窒素は疳癪にして、炭素は忍耐なり、如何なる強圧にも拘らず
乖離して騰躍せんとするは窒素の質、如何なる熱力にも拘らず凝固して金剛
石たらんとするは炭素の質、此の両質相反せる二原素の結合せるもの、一朝
機を得て遊離する時、こゝに轟然として霹靂を聞く、爆裂弾の破裂是れなり。
平八郎は非常の■■と非常の忍耐とを併有らり、其の金頭をわり/\尾まで
喰ひ尽くせる如き■■を有しながら、四十四の齢まで事を首めずして克く壮
年の鋭気を克制せりといふ忍耐あり、業已に爆裂弾と同一の性質を有せる以
上は、苟も一たび衝突するあらんか、必ずや大に破裂するは固より理の当然、
怪むに足るものなし。且つ破裂はもと男児の宜しくあるべき意気地の結果、
壮とすべし、快とすべし、唯だ破裂するに当ては須らく向て破裂すべき所を
撰ばんことを要す、敵艦を沈むる水雷に若くはなきも、之を放つ能く艦の種
類を択び、且つ又狙ひを定めざるべからず、平八郎が民の窮阨に際し、豪富
が鉅万の財を積み重ねて栄華を貪るを観、己れ自ら早く私産を抛ちて民の急
難に赴き、彼の守銭奴と雖も苟も人心の在るあらば幾分の助力を与ふべしと
信せしに、意外にも恬として顧みるだになさゞるに至りては、此等奴輩が鉅
万の財を積める城郭に向て突進し、当りて砕だけ、諸共に砕けんとしたる其
の破裂や大に其の所を得たるものなり。
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川崎紫山
「矢部駿州」
その9
安(いずくん)ぞ
どうして・・・
だろうか
竟(つい)に
(つ)くさゞる
竭(つ)くさゞる
崛起(くっき)
にわかに事が起こ
ること
睹(み)て
■■
伏字か
首(はじ)めず
克制
自制
業已
既に
窮阨
(きょうやく)
行きづまって苦
しむ
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