Я[大塩の乱 資料館]Я
2016.3.23

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩平八郎』 その2

国府犀東(1873-1950)

(偉人史叢 8)裳華書房  1896

◇禁転載◇

序(2)

管理人註
  

平八郎は私行上一二議すべきものありしとするも、其の直進して破裂せしに就て は、一点議すべきの所なし。王陽明曰はく、人固有其父子兄弟之墜溺於深 淵、呼号匍匐,裸跣顛頓,板懸崖壁而下拯之、士之見者、方相与揖譲談 笑於其傍、以為是棄其礼貌衣冠而呼号顛頓若此是病狂喪心者也、故夫揖 譲談笑於溺人之傍而不救、此惟行路之人、無親戚骨肉之者能之、然 已謂之無惻隱之心人矣、若夫在父子兄弟之愛者則固未痛心疾首 狂奔尽氣,匍匐而拯之彼将陷溺之禍有顧、而況於病狂喪心之譏乎、而 又況於人之信与乎と、陽明も亦た人に狂を以て目せられ、己れ亦た 狂を以て居らざるべからざる旨を述べり、然れども陽明の行動は寧ろ平穏なりき、 これ陽明の器局宏大なりしにも由るべけれど、若し当時民を救ふに急なること一 層甚しきものあるに於ては、更に一歩を進めざるべからざりしなり、平八郎の行 動は頗る激にして、君子の風を欠く、陽明の大国的気風ありしに似ず、然れども 其の忍びに忍びて一たび思ひ立ちては共倒れに倒れずんば止まずと決し、獅子奮 迅の勢を以て突進せし所、是れ大和男児の特色を示すものならずや。我が邦古来 忠義の士に富む、而も窮民の為めに貪婪の富豪を撃たんとして堀起せしもの、独 り指を平八郎に僂せざるべからざるなり、此の如きは空前絶後、古往今来唯平八 郎一人あるのみ、彼れは自然に社会主義を得たるもの、而して竟に主義の為めに 斃れたるものなり、故に平八郎はたとへ人品に於て陽明の下に出づるとするも、 其の知行合一の点に至りては確かに之より一歩を進めたるものなり。たゞ夫れ人 文未だ発暢せず、民愚にして理を解するの力なく、社会主義なるもの種々に誤解 せらるゝを免れずと雖も、而も此の主義は百年の後必ず大に行はるべきなり、一 地を画し、一物を限り、之を自己の私有財産と看做すは陋の至り、財産はたゞ実 用をなせば足る、三井岩崎等が幾千万の財産を私有すと認むるも、将た又た其私 有なる観念を除去して稽ふるも、財産其の物の実用に些の変化あるなきこと、猶 ほ旧諸侯が其の封土を私有財産の如くに考へたりとしも封土返還の後土地は依然 として実用をなすと一般なり、私有財産と云ひ、所有権と云ふ、至竟殆ど児戯に 過ぎざるのみ、封建と名くる政治上の閲閥は既に之を撃摧するの要ありて之を改 造したりとせば、私有と称する貨財上の閲閥も亦た之を撃摧するの要あるなり、 楠公は夙に覇政を覆へして王政に復せんと期し、政閥打破の卒先者として港河に 斃れたり、而も斃れてより五百年、其の主義大に天下に明なり、而して乃ち財閥 に至りては、平八郎実に之が打破の先鋒者として奮起せり、たとへ黒焼にて死し たるも、百年の後黒焼の余燼、或は再び大に其猛を吐くを見るならんか。平八 郎が財閥打破の要を感じたりしは、大坂の社会由来財閥を以て構成せられ、苟も 心あるもの皆な其の私慾に殉ふ浅ましの気風を見て憤恚せざる能はざるものあり しに基因せり、若し夫れ鴻池住友等の豪商を打撃すべかりしとせば、更に大なる 三井岩崎等の財閥も固より大に之を打撃せざるべからずとなす、而して世界の趨 勢は日に月に此の主義の行はるべき傾向を示す、若し現今の状態に一任し置かば、 将来社会の為めに深く憂ふべきものあらんとす、泰西諸国に於ては小説シーザル スコヲムに類似せる禍乱を見るに至るならん、我が邦に於ても亦た多数の平八郎 一時に勃与するを見るに至るならん、豪富にして只だ汲々として私利に耽れば、 悉く爆裂弾の粉砕する所とならんか。平八郎伝を読みて梶X感を書す、伝の作者 は同郷の国府犀東、文勢時ありて火薬に類する者。   明治二十九年十一月           雪嶺■人識





























貪婪
(どんらん)
飽くことを知ら
ないこと

僂(ろう)せざる
僂はまげるの意

竟(つい)に





発暢
(はっちょう)

看做(みな)す

(ろう)
心が狭い

稽(かんが)ふる







撃摧
(げきさい)
物をうち砕くこと














殉(とな)ふ
一身をなげうつ

憤恚
(ふんい)
憤慨する










梶X
(そうそう)
あわただしいさま

■
文字不明
雪嶺
三宅雄二郎か
(1860-1945)
哲学者・評論家
 


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