Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.4.30

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大塩の乱関係論文集目次


『大塩の乱と其の社会的影響』
その4

黒正巌(1895-1949)

『社会経済史研究 第3巻第8号』
(日本評論社 1933)所収

◇禁転載◇


      二 (つづき)

 大塩の反乱を書いたものが、先程申したやうに、津々浦々の人々に非常なインタレストを以て読まれたのであるが、果して然らば若し百姓一揆が其に革命的の精神を以てリードされて居るものであるならは、斯の如く明に激情的な熱烈さを以て行動した大塩の乱が起つた後に於ては、更に以前にも増して色々な暴動が起つて来なければならない筈であると思ふのである。所が其の影響を見ると、具体的に騒動になつて現はれたものは非常に少いのである。

 唯々一つ越後の柏崎に於て其の年の六月生田万(国秀又は道満)と云ふ国学者が当時の世情を慣慨して、大塩の乱に傚つて騒動を企てた。併し之に参加した者は大部分当時のインテリ階級であつて、農民は極めて少く、二三人しか居ない。而もそれは全く己むを得ず参加した連中である。所が此の生田万の思想は大塩と同じやうな思想であつて、極端に徳川の封建社会と云ふものを否定する思想に立つて居り、王政復古を指導精神として居るのである。御承知の如く生田万は当時として極左の思想を持つて居たのであつて、東照宮に詣うでゝ詠んだ歌があるがよく彼の思想を示して居る。

 「神ころひ君ころへりと見ん人のありやあらすやこれの大宮」

 即ち東照宮に参つて其の壮麗な建築を見て、天に在す神が之を譴らないか、 一天万乗の君が怒らないか、怒つて居ると云ふことを見る人があるか、ないか、此の大きな神社を今日どう思ふかと云ふ歌である。是は当時としては不届極まる歌であるが、実際是は生田万の思想を現はして居るのである。又天の命を奉じて国賊を誅すると云ふやうなスロ−ガンは大塩の彫響を受けて居ることは明かである。併し是もそれきりであつて、而も是は百姓一揆ではない。

 百姓一揆として大塩の乱以後起つたものは割合に少いのであつて、備後の三原の音姓一揆、摂津の能勢の百姓一揆、阿波国、それから播磨の東部の百姓一揆、其の他の百姓一揆は之と全然関係はない。文献に依ると、備後、摂津、阿波、播磨の此の四つの百姓一揆だけは大塩の影響を受けたと云ふことが明に記されて居るのである。詰り其やり口から見て影響を受けて居るのである。併しそれから後になると段々百姓一揆の数が少なくなつて居る。大塩の乱の起つたのは最も百姓一揆の頻発甚しい時である。若し百姓一揆が真に封建社会を否定する革命運動であり、随て革命性を持つて居るものであると云ふのであれば、大塩の乱を転機として益々百姓一揆が多くなり、拡大して行かなけれぱならない筈であるけれども、事実は正に逆になつて居るのである。私は百姓一揆の本質から見て、百姓一揆と云ふものはどうしても革命性を持ち得ないものであると云ふことを繰返して申さゞるを得ないのである。又同時に大塩の乱の様な革命的精神に依つて導かれたものであつても、而もそれが津々浦々に至る迄読まれたものであるにも拘らず、それが百姓一揆として現はれなかつたと云ふ事実からして、徳川時代の百姓一揆が、与へられた苦痛の軽減除去と云ふリアクシヨンに過ぎないと私は考へたのである。勿論大塩の乱に関する研究は尚ほ十分でないし、又其の後に起つた百姓一揆の検討も完全であるとは申されないが、私の主張の正しいと云ふことを今日も尚ほ考へて居るのである。

 尚ほ此の問題に就いては此処に列席されて居る所の土屋喬郎氏、其の他色々な方々が批判されて居る。併しそれは皆立場の相違があるやうに考へられる。最近では田村栄太郎氏が歴史科学に於て「百姓一揆の論争の批判」 と云ふ一論文を書かれて居るやうな状態であつて、この問題は忘れられては居らない。恐らくこの論戦は長く未決のまゝ継続せられると思ふ。それにつけ先づ革命的とは何ぞやの問題を解決すること、事実の検討、徳川時代封建社会の本質の発明、身分社会と階級社会の概念の確立をしなければ、いくら議論をしてもつきない。結局は泥試合に終らざるを得ない。希くぱ朗かな気持で友誼的学究的論争によつて解決し度い。

 話が極めて雑駁で、私に対する批判者の批判を封じて自分のことばかり申して甚だ失礼であつたが、最近聊か研究したので論戦の蒸返へしをやつても宜いと思ひ、敢て此の席で私の意見を申上げ又批判に対する傍証的弁護を致したやうな次第である。

 (昭和八年十一月四日 社会経済史学会第三会大会講演会に於て)(終り)


横山健堂「大塩平八郎と生田万


『大塩の乱と其の社会的影響』目次/その3

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