『名判官物語』 中央公論社 1941 より
適宜改行しています。
北辺の警備 | ○ 寛政以前より露西亜人は東方に進み来り、我が領地たる樺太蝦夷の地に移住し又は漁業に従事してゐた、漁業は今日も極めて有利であるが、その頃も収益が沢山あつたと見えて、露人は遂には追々に南下して我が領地内に侵入して来た。そこで幕府は北辺の警備をなす必要を感じ、吏員を差遣して実地を調査したる上、東蝦夷を松前家より上地せしめ、幕府の直轄とし警備及び経営の事に当つた。 | |
間宮林蔵 |
寛政十年と十一年の両度近藤守重等は蝦夷を巡検し享和元年には石川忠房等が又蝦夷を巡検した、忠房の随員に間宮林蔵が居りて自ら進んで樺太を探検した、露人は文化三年以来樺太、エトロフ、リイシリ島等を侵し、漁業の番小屋に放火し、米穀を掠奪し番人を捕虜となすなど乱暴をなすより、幕府は東北諸藩に命令し兵を出して警備したから、その後は北辺は先づ無事であつて露船は長崎へ来るやうになつた、要するに当時露国の樺太蝦夷侵略に対する政策に対しては幕府の最も苦心したところであつた。
寛政十二年に蝦夷地の巡検を命ぜられ、千島諸島を視察中伊能忠敬に 出会し測量術を学んだ、享和年間西蝦夷の測量に従事し、宗谷海峡附近を探検したが、次で樺太を探検する必要ありとし単身樺太に渡り奥地に進み、遂に翌年四月韃靼海峡を小舟にて横断し満洲に渡り、黒龍江の下流を究めた、 或説には山海関まで至りたるも関門に入ることが出来なかつたといふ、「北韃紀行」「北蝦夷図説」等の著書がある、 林蔵は名を倫宗といひ、北海より帰りて後も、伊豆諸島などを探検した功により御普請役に進み、足高二十俵を賜わる身分となつた、 シーボルト事件の起こつた時書物奉行兼天文方高橋作左衛門を密かに訴人したといふので、一部の人士より排斥せられたが、性恬淡一生娶らず従つて子がない、殆ど仙人のやうな生活をしたのであつて、寝るにも帯を解かず、夏も蚊帳を用ひなかつたといふ。(東遊紀行、遭厄日本記事) | |
定謙吏員を 蝦夷に派遣 す |
北辺の憂は定謙が勘定奉行になつた天保七年にも減少しない、そこで定謙は杉田伝十郎外二人を蝦夷に差遣し露人及び土人の状況を視察せしめた、 杉田伝十郎は文化五年に間宮林蔵と共に蝦夷を巡検し、樺太の東海岸を廻つたことがある人である、 伝十郎等はウルツプ島に至りたるに、露人はこの島に居住してラッコを捕獲してゐた、そして内地人と密に貿易して米穀等を沢山所有してゐた。露人は伝十郎に対して「露国では日本に対し貿易を懇請するけれども、日本政府は之を許可しない、これは和蘭人に欺かれてゐるからだ、和蘭人は長崎に於て貿易上の利益を独占しようと思ひ、露人を危険なる人間のやうにいふのはあやまりである、露国は日本に害をなすものではない、吾々がこの島に来て居るのは日本政府が黙認しているからで、決して不当に侵入している訳ではない、元来日本政府は不毛の地を開拓せずに打捨てヽ置くけれども、露国の方針は不毛の地を少しづヽ開拓して、天主に御奉公をするのであるから、この地方もだん\/開墾する積りである」と語つたといふことが、松本計機蔵の談話なりとて「燈前一睡夢」に記してある。 この露人は露国の拓殖方針を巧みに語つてゐる、定謙は勘定奉行として北辺の警備と開拓に付何か施設する考があつたらうと思はれるが、翌九年四月西丸留守居に左遷せられたから何事も著手するに至らなかつたのであらう。 | |
定謙左遷せ らる |
矢部定謙が勘定奉行といへる栄職に抜擢せられて、僅かに二年にして西丸留守居といへる閑職に左遷せられたる原因に付ては、世人はその事情を知らぬため藤田東湖も「世人或は譏り或は惜みけれども人其故を知らず」と「見聞偶筆」に記している程で、親交のあつた東湖にも当時は分らなかつたのであるが、大谷木蹇同の記するところに依れば、水野忠邦の意見に反対したためであつた。事実は左の通りである。
そこで急に西丸御造営ということになつた、その計画は尾張、紀伊、水戸、加賀を始め四十余の大名に対し、十万石に付千二百石の割合の出金を命じ、又諸旗本にも出金せしめようとするのであつた、将軍家慶も父の居城のことなれば一日も速に造営せよとの命を下し、老中等も評議一決しようとしたから、定謙はこれに反対して意見を述べた、 その趣旨は「西丸は焼失したけれども、江戸城の外郭櫓等に毫も損害はなく、一朝事ある時に於ても何等の差支はない、故に大御所は暫く御忍耐ありて一時二の丸に御座あるべきが相当である、只今の御時勢は飢饉打つヾきて万民困窮の際なれば、諸大名も出金は困難なり、暫く民力の旧に復するを待ちて御造営あるべきが御政治の本旨であろう」といふのであつて、定謙は民力休養を唱えて一歩も譲らない。 | |
定謙町奉行 となる |
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