『名判官物語』 中央公論社 1941 より
適宜改行しています。
一、天保の改革矢部定謙は天保の大改革に付ては賛成であつて反対者ではなかつた、併しその実行方法に関しては不同意のことが多く、為に水野忠邦の意見の通り施行しないこともあつたので、遂に忠邦より免職せらるヽに 至つたから、右の改革のことを述べよう。天保十二年、老中水野忠邦の断行した改革は、忠邦が庶政一新の方針の下に大御所家斉の存命中より準備したのであつて、それがために股肱腹心の者又は剛直の良吏を抜擢してそれ\゛/要路に配置してあつた、大御所が閏正月三十日(実は七日)に薨去するや、忠邦は葬儀委員となり葬式一切を二月二十五日に済ませ、五月十五日将軍家慶に上書して決裁を仰ぎ、改革の命令を発した。 将軍家慶は天保八年に家斉が隠居した時に、征夷大将軍となり政治の局に当たつて見ると、父家斉時代の華奢放縦の政治の弊害が甚しいのを認め改革をせねばならぬと思つてゐたが、前将軍を憚り実行しなかつたのであるから、忠邦の上書を見て直ちに採用し改革に著手せしめた。
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忠邦の目的 は社会の改 造国力の充 実を図るに 在り |
忠邦の目的は、秕政百出し風俗頽廃せる社会を改造して、享保時代の徳川中興の政治若くは少くとも松平定信時代の寛政の状態に復帰せしめようとするにあつた、忠邦が庶政を一新しなければならぬと考えたの は、文化文政の頃より露国又は英国の船舶が我が沿岸に出没し海外の勢力が漸く我が国に迫り来らんとする形勢であつたから、国内の人民は遊楽に耽り安閑として居るべきではない、宜しく奢侈を禁じ節約して国力の充実を図るべきであるといふにあつた、その心事は誠に諒とすべきものがあるも、実行方法が急激であつて改革の法令を雨の如く下し、而も施行の任に当つた者に適材を得なかつたために その結果は失敗に終わつた。 | |
中野碩翁 |
忠邦は改革の第一著手に之に反対するであらうと思つた家斉時代の寵臣にして、勢力のありたる若年寄林肥後守忠英、側衆水野美濃守忠篤、小納戸頭取美濃部筑前守等を免職し、次に大奥の廓清を志し先づ大奥に勢力を振ひたる中野碩翁を退け、老女浦尾を始め女中の上流の者十余名を免職した、大老井伊直亮は天保十二年五月に罷め、賢明の聞えあつた老中大久保忠真は既に天保八年に、老中松平乗寛は天保十年に逝去し、老中太田資始は忠邦と意見を異にし天保十二年六月に罷めたから、老中には真田幸貫(松平定信の子)、堀田正睦が居つたけれども、忠邦の改革に反対する者ではなかつた、要するに忠邦は将軍の信任を得て万事一任せられて改革を断行したのであつた。
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水野の三羽 烏 |
忠邦が改革を施行するに付専ら信任していた者は、水野の三羽烏と呼ばれた鳥居耀蔵、渋川六蔵、後藤三右衛門であつた、この三人はいずれも敏腕であつたから、あまりに腕を揮ひすぎて法令を厳重に施行し人民より怨まれた、要するに忠邦はこの三人に誤られたのであると史家は評してゐる。
渋川六蔵は幕府天文方を勤めたる旗本渋川助左衛門の嫡男であつて、蘭学に通じ和漢の学を善くし、忠邦に抜擢せられて書物奉行となり、天保の改革に付ては徹底的に断行すべしとの意見を有し、大奥の廓清を主張した一人であつた。 後藤三右衛門は金座御金改役を勤め、金座後藤と称せられたる後藤庄三郎光次の分家である、漢学を猪飼敬所に学び才智優れたるより御金改役にて満足出来ず、青雲の志を立て権門に出入して遂に忠邦に取入り、鳥居耀蔵とも親しく交際し、財政の改革に付忠邦に進言したことが多かつた。 |