『名判官物語』 中央公論社 1941 より
適宜改行しています。
忠邦の改革は世人が想ふやうに、青天に霹靂が落下せる如く急激に施行したものではなかつた、八代将軍吉宗は実践躬行、身を以て範を示し質素検約を奨励して諸大名へ及ぼし、次で旗本の侍にも之を実行せしめたから、商人等は奢侈品が売れなくなり、だん\/に一般が質素の美風になつたのであ
つたが、田沼時代になりて運上政治に依りて頻りに税金を取り立てたる結果は、賄賂は公行となり役人の奢侈は増長し、老中、若年寄より贅沢の生活を始め出し下級の役人旗本の侍より人民まで之に倣ひ奢侈の生活が流行する様にになりたるも、その結果は旗本その他の侍は借財に苦しみ、浮浪人乞食を輩出するに至つたことは既記(349頁・管理人註−脇坂の項)の通りである。 松平定信時代となりて又々質素倹約を奨励するや、先ず下層階級より始めることとし、先づ町人に対し奢侈を禁じその商売に関し取締をなし贅沢品の売買を許さないから、奢侈をなさんとするも之を供給する所がないので、自然に質素節約が行なわるヽに至つたのである。忠邦は右定信の実行した方針に従い、先ず下層階級より粛正せんとしたのはよかつたが、その方法に無埋があつたから人民は困苦したのである、忠邦の第一に着手したのは下谷池端弁天、上野車坂山下、四谷、市谷、牛込、小石川、赤坂御門外の水茶屋、揚弓店及び飲食店を始め浅草、本所、深川、芝、赤羽の隅々に至るまで右の類の営業を禁止しその家屋小舎等を取払ひて火除地とした。
又堺町及び葺屋町にありたる芝居、操り人形座及び俳優の住宅も取払ひ、浅草聖天町の小出伊勢守の下屋敷へ移転を命じた、尤もこの芝居小屋等の移転は費用を要するであらうといふので、御手当として金五千五百両を下げ渡した、併しこの命令は芝居操り人形の関係者が困つたばかりではない。此等は江戸市民の唯一の娯楽機関ともいふべきものであるから江戸市民も苦惰を唱へ出し、芝居等に関係ある各種の商売人も怨嗟の声を揚げた。
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定謙の意見 |
定謙は天保改革の方法に付て独自の意見を持つてゐた、それは「松平定信の時の改革でも人民は意気消沈し、商売は繁昌せず不景気になり商人は困難したのであつた、それであるから数年たヽざる中に、飲食店娯楽場はもとの通りに許可するやうになつた。要するに人心を匡正せずして外形の設備のみを除去しても節倹は行はるヽものではない、徒らに世間を騒がすに過ぎぬ」との意見であつた。 定謙は改革の実行に著手すると果して江戸市民が大いに困難し怨声をあげたから、之を顧みずして強行するのは政治上得策でないと忠邦に進言した、忠邦は定謙の意見が人民の都合をのみ考へて温和に過ぎ改革の如き革新政治を実行するに適せない人物だと思つて居る時、鳥居忠耀の如き改革の先鋒として万事急激に成績を挙げようと努力して居る者は定謙の処置を手ぬるしと見て、忠邦に対し定謙は町奉行でありながら改革の法令を実行する意忠なしと讒言した、 忠邦も賢明の人であるから定謙の如き良吏に改革をなさしめんとしたのであつて忠耀の進言を信じ直に定謙を罷免せんとの意思はなかつた、依て暫く定謙の所為を注意して居る中、定謙に左の如き行為があつた。
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忠邦定謙を 詰問す |
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遠山景元 |
それが兄が病弱にて相続が出来ず景元が遠山家を相続することになると、元来が怜悧なる性質であるから生れ変りたる謹直な人となり、文武両道を修めて上達し人格も立派になつたから、幕府より御小納戸に挙げられ次で目付に進み作事奉行を経て、天保十一年三月北町奉行に抜擢せられた、 故に天保十二年の江戸の町奉行は南北とも名奉行が居つた訳である。定謙が罷められて忠耀が之に代ると江戸児は忠耀を岩永左衛門と呼び、景元を畠山重忠と呼んでいた、浄瑠璃の阿古屋琴責の両者に擬したのであつた。景元は世態人情に通じて居り温厚の人であつたから裁判も上手で、江戸市民の評判は極めてよかつた、景元には幾多の挿話がある、その一を述べよう。 景元は金四郎と称した若き頃は、狭斜のちまたに出入し旗本の無頼の青年と共に遊蕩し、美男であつたから花柳界でもてはやされた。景元はその頃流行した文身をなし、身体より腕先まで桜花を美事にほりつけた、それがまた金四郎の評判を高くする原因となつた、しかるに家督を相続し役人となつたが、この文身を除去することが出来ぬから常に腕の先までの襯衣を着用していた、愈々町奉行となつて人民に接することが度々あるから、夏の暑い時でも之を脱がなかつた、これが景元の一生涯の苦痛であつた、 或時吉原某楼の花魁が或盗賊の事に関し証人として奉行所に呼出された、かヽる時は附添として楼主及び鴇(やりて)婆などが共に出廷するのである、その時出頭した鴇婆は景元が吉原に遊びたる頃からの婆でよく知つてゐたから景元を困らしてやらうと思つたのか、それとも知人であるといふことを示すためか、何にせよ多年鴇婆を勤めた程のしたヽか者であるから、景元が威儀を整へ麻上下にて白州に出て奉行の席に著座すると、鴇婆は「アラ金さん暫く」となれ\/しく言葉をかけた、 楼主はこの無作法な態度に驚きその袂を引きてその無礼を叱つた。列座の目付書役その他の役人もまた驚いた、白州取締の役人は鴇婆を睨み付け「ひかへろ」と叱佗しようとすると景元は泰然として徐に之を止め鴇婆に向ひ微笑して物静かに「ヤーお前であつたか、久しく逢はぬが変りはないか、お前も無事で重畳である。併し予は今は昔の金四郎ではない、天下三奉行の一人として大切な役目を勤める身である、分つたか」といひ、鴇婆をつく\゛/と見て「見ればお前は大分年を取つたやうだが、いまだに鴇婆を勤めているのか」と憐むが如くいえば、さすがあばずれ者の婆も顔を赤くして二の句を出すことが出来ず叩頭して黙して仕舞つた、この事は偶々景元の人と為りを察することが出来るので、その頃江戸市中の評判になつた(香亭手稿)。 景元は天保十四年二月大目付に転任し、弘化二年三月再び町奉行を勤め、嘉永元年三月辞職し薙髪して帰雲と号し優游身を終つた。 |