Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.6.11訂正
2001.5.27

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大塩の乱関係論文集目次


「矢 部 定 謙」
その6

小山松吉 (1869−1948)

『名判官物語』 中央公論社 1941 より


禁転載

適宜改行しています。


 
   天保の改革も、南町奉行に矢部定謙、北町奉行に遠山景元の如き良吏が居つたならば、寛厳その宜しきを得て成績を挙げることが出来たであらうに、鳥居忠耀の如き酷吏伝中の人物に一任したヽめに怨嗟の声四方に揚がるに至つた、又その頃の勘定奉行梶野土佐守良材も改革を断行するに急にして人民の困難することなどに思いやりがないから、何事も忠耀の意見に賛成した、それであるから定謙が罷められて後は、景元一人で如何とも仕様がなく殆ど拱手し傍観するばかりであつた。  
天保改革の
犠牲者
 天保改革は多くの犠牲者を出した、それは多く忠耀の所為であつた。試にその二三を挙げよう。

一、天保十二年十月十一日三河田原城主三宅土佐守の家臣渡辺登は自殺した、登は華山(崋山)と号し和漢の学に通じまた絵画をよくした、慎機論、鴃舌問答を著はし、同志の蘭学者医師高野長英は夢物語を著わし時事を論じ、外船を打払はんとするの無謀なることを論じたから、当時の目付鳥居忠耀のために人心を惑はすものとして捕へられ登は永の押込み、長英は永牢を申渡された、そして登は田原に於て蟄居中、累を主家に及ぼすの虞ありとて自殺した、長英は後に至り伝馬町の獄舎火災の際脱獄し、嘉永三年十月江戸青山に潜伏中捕吏に襲はれ自殺した。

二、同十三年七月十三日戯作者為永春水は獄舎に死去した、それより先き人情本は発売貸借を禁止せられ春水は獄に投ぜられたのであつた。

 その頃華美の生活をしたとの理由にて罰せられた者は沢山あつたが、俳優市川団十郎の父海老蔵の深川木場の家屋は華美を尽したるものであるといふので父子とも手鎖の上、家財は闕所、海老蔵は江戸払となつた、尾上菊五郎は居宅が華美なりしを以て怖れて大坂に滞在し、江戸に帰らなかつた。

三、同年十月二日幕府は長崎会所調役頭取(与力格)高島四郎太夫(秋帆)を、長崎奉行伊沢美作守政義に命じ取調をなさしめた、四郎太夫は西洋の砲術に通暁し諸大名の家臣を門人とし、長崎に於て砲術を教授し居りたるに、門人益々増加し天保十一年には門人三百余名にて、歩兵四小隊砲兵一隊を編成し春秋二期に 田上の原にて演習をなす程度に進歩してゐた、四郎太夫の有力なる弟子は伊豆韮山の代官江川太郎左衛門であつた、江川は高島流の砲術の皆伝を受くるや、江川の門に学ぶ者が多く門弟四千人の多きに及んだといふから当時西洋流砲術研究熱の盛んなりし事は察するに余りある、江川の門人中には佐久間象山、川路左衛門尉(勘定奉行)大槻盤渓等の名士もあつた、

然るに保守派の代表者ともいふべき鳥居忠耀は林家の出身で漢学者なるを以て蘭学の流行を喜ばず、渡辺登、高野長英等を検挙したのみならず、遂に四郎太夫にも及んだ、犯罪の嫌疑は「四郎太夫が西洋流大砲三門、野戦砲十門及び小形の物、和流のもの取交ぜ三十余挺、その外和洋小銃四百余挺を所持し、鯨猟に事寄せ長崎港外に足溜を設け異国の兵を引入れんとの謀反を企てたるものだ」といふのであつたが、之は四郎太夫及び伜浅五郎と共に明白に弁解し何等の嫌疑もなかつた、然るに忠耀は自身訊問の筋ありとて翌十四年三月四郎太夫を門人二十余人と共に江戸に引致し取調をなしたけれども何等の罪証はなかつた、併し酷吏の常として釈放することが出来ず猥りに外国人に交際したとか町会所の入用金を費消したとかの口実を設けて四郎太夫を足掛け四年の間江戸の伝馬町の揚屋に拘禁した。

 
改革の成績
不良
 右のごとく改革の成績は極めて不良であつたから、忠邦に対しては反対者が四方より起り諸大名も不平を唱へ出した、従つて将軍家慶の忠邦に対する信任も薄くなつた、又紀州家はその領地を上知することに関して忠邦の処置に反対し始めたから、この形勢を観て取り鳥居忠耀は鋒を倒にして忠邦に反対し始めた、烱眼なる忠邦も股肱と頼む忠耀が足もとより鳥の立つやうに反対し始めたるを怒つたが時は既に遅い、老中土井利位及び大奥の老女姉小路の一派は極力忠邦排斥の運動をしてゐる、  
忠邦の罷免
天保十四年八月頃になると忠邦は四面楚歌の重囲に陥つた、閏九月一日より病気と称して登城せずに居ると、遂に十三日に罷免になつた、 その辞令には「御勝手取扱之儀不行届之儀有之、加判之列被成御免、如元雁之間詰被仰付候に付、差控可罷在候」とある、忠邦は勝手掛を兼任していたから右の如き辞令面であつた。(以上、慎徳院殿御実記、徳川十五代史、寝ぬ夜のすさび)

     忠邦の免職は江戸市民のみならず、天下を挙げて之を歓迎した、忠邦の志は楽翁公の政治に模倣するに在つた、併し改革の実行者にその人を得ざりしため、事志と違ひ忠邦の嫌忌する田沼意次の晩年と同様の運命となつた、如何に忠邦が人望を失ひたるかは、清水礫州の『ありやなしや』の左の記事にて想像が出来る。

       水越の御勝手向取扱ひの儀不行届あれば、加判の列御免となる、閏九月十三日と、聞くとひとしく定めて即時閣老邸引払ひ仰せ出さるべし、左すれば家財持運びにかこつけて、宿恨を霽さんと思ふ者、午の八つ時(午後二時)頃よりいづこよりかいで来にけん、枴にもつこうをかたげて、西丸下に集どはんと、和田倉、馬場先の御門を入る者絡繹として絶えず、然るに差控丈け仰付けられたるまゝにて引払ひにならねば、夜五つ時(午後八時)頃より右の人足体の者を始め幾千人の町人ども、心の遣る瀬なく鯨波の声を揚げ、門内に石つぶてを打つけ、やがては邸前の辻番所一ケ所を打壊したり(余も十四日の朝其状を目撃したり)其物音の凄まじきを聞き、会津藩にては物頭一人騎馬にて人数を率ゐ警固を為し、古河侯(土井利位)及び西丸大手御番所、桔梗御番所等よりも人数を出して是等の人を制して居る程に、鳥居甲州(忠耀)は火事装にて出で来り同心に命じて制止し四つ時(午後十時)過に至つて漸く静まりたり、其騒ぎ大方ならず、場所柄に似あはざる事にて其怨を含む者多き、昔日の田沼に勝れりといふ者ありき。

 忠邦は右のごとく免職となりたるも、翌弘化元年再び老中に任ぜられた、併し前年の権威はなかつた、そしてその翌二年二月二十二目再び罷められた、又鳥居忠耀もその日評定所に召喚せられ吟味中相良遠江守長福に預けられた、その後忠邦は処罰せられ、忠耀、渋川六蔵、後藤三右衛門もそれ\゛/罰せられ、さしも天保改革に飛ぶ鳥を落とすやうな勢力のありし者が揃ひも揃つて処分されたのであるから、世人は「因果はめぐる小車の輪の如し」と古い諺を思出し今更の如く各自の戒めとしたといふことである。

そして忠邦始め水野の三羽烏と呼ばれたる酷吏に対し断乎として処罰をなしたのは、徳川幕府の裁判の公正なる所以であつて、これは将軍家慶老中阿部正弘等の功績であると思ふ。この事は後に至り述べる機会があらう。

 
 


「矢部定謙」目次その5その7

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