Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.6.11訂正
2001.5.28

玄関へ

大塩の乱関係論文集目次


「矢 部 定 謙」  その7

小山松吉 (1869−1948)

『名判官物語』 中央公論社 1941 より


禁転載

適宜改行しています。


 
 

二、定謙の関与したる司法事務

 これより定謙の司法事務に関することを述べよう、彼れが名奉行として天下に有名となつたのは堺の町奉行時代であつたから、その頃には幾多の名裁判があつたと思わヽるけれども、世人周知せられ居るのは兄弟の争いの裁判である。

 
兄弟の争
一、堺の町に富める商人があつた。ある日この家の前に服装のいやしき若者が入り来り,合力を請う様子であつたが、後にはこの家の主人に面会を求めるので主人は店先に出て逢ひたるに、その若者は「自分はあなたの弟であります」といふ、主人は「自分にはお前さんのような弟はない」と答えたけれども若者は弟であると主張してこの家を退出しない、主人は困却して色々に諭したけれども、若者は弟であると飽くまで主張して動かぬから、やむを得ず奉行所に訴へ出でた。

そこで定謙は双方を白洲に呼入れ取調べた、定謙の尋間に対し主人は「私の父は何某と申し、私の母は何氏で一人の子でありまして弟はありませぬ、この事は一家親族を御吟味下されば明白であります」と答へた、

若者は之を聞き「私は此処に居らるヽ御人の先代何某の末子であります、そのことは親類の方々には知らぬ人もありませう、その訳は父は晩年に某所の妓と狎染めその妓を後妻に入れた処、親類集りて堺に名高き家柄の主人が、氏素姓も分らぬ妓を引入れ後妻となすは宜しからずと反対した、父は親類の反対にも拘らず後妻とすることを主張したヽめ、親類一同立腹し家のためには換へがたしと父を隠居せしむることに相談極まり、父と妓とを家より追出し只今の主人即ち兄が相続したのであります、かやうの始末にて父と妓とは親類一同より絶交せられて別邸に隠居しました、その後妓の腹に生れたのが私であります、私は当主人の弟に相違ないのでありますから兄弟の名乗をしたいと思ひ参りたるに、兄はその事惰を知りながら、私が貧乏し服装もきたないので、世間の外聞を耻じて私を他人扱にするのでありまして不人情であります、右様の次第でありますから、親類を御調べになりても皆知らぬと申すでありませう」と述べた。

定謙は聞終りて弟の陳述が真実であると思つたから、親類の者は取調べずに直ちに主人に対し説論した、然るに主人はなか\/弟を承認しない、定謙は態度を改め主人に対し兄弟の相敬し相愛する情を詠じたる古歌を懇によみ聞せたる後に「古歌には兄弟の情を詠じ相敬し相愛する心の切なること、互いに相助け合ふ情を述べてある、それがし不幸にして兄弟がない、幼き時物学びの場に出て、他人の兄弟あるものが相共に睦じく力を伸べ心を合はする風情を見る毎に、見弟あらんにはさこそ頼母敷きことならんと羨ましく思うてゐたのである、依てせめては忘を同じくする者と兄弟の契を結びたしと常に忘るヽこともない。

然るに只今其方等は実の兄弟でありながら、弟は兄を不人情なりと言ひ、兄は弟を他人扱にしてゐる、他人だに兄弟の契を結ばんと思ふ心あるに、さりとは歎かはしきことではないか、誠に浅間しき次第である」と言々肺腑より出で遂に落涙して説諭した、二人とも頭を垂れ定謙の言ふところを聞いて居りたるが、やヽあつて主人は恭しく言葉を改め「如何にもこの者は私の弟に相違ありません、かヽる争をして浅間敷きことを御訴へ致しましたことは心肝に銘じ御耻しき次第であります、何卒御吟味御下げを願ひます」と平伏して述べた、定譲はこの言を聞き喜びて尚ほも二人に対し懇篤に説論し退出せしめた、主人は弟に相当の財産を分与したといふことである、この事件は世間の大評判となつて定謙の名声は一時に揚がった。

     後年藤田東潮は定謙に面会の際、この裁判のことを尋ねたるに、定謙は謙遜して「左様な兄弟の争はありたるもそれがしの手際ではない、畢竟兄はなか\/強情にてそれがしの説諭に服せず、吟味の席にてそれがしも言ひまかされ殆ど当惑せる余り至誠を以て諭したところ、存外に屈伏した次第にて、その事が人口に膾炙したのは恥入つた次第である、その兄弟は今以て仲よく相応の株を持ち渡世し居れり」と語り自分の手柄にはしなかった、当時権柄づくに人民を叱責する奉行の多き時代に於て、定謙の如く穏かに諄々と説諭したのは賞揚すべきである。

     右兄弟の争の裁判は諸書に散見するのであるが「矢部駿州堺奉行事書」といふ書にはこの事は天保三年のことで、兄といふのは商人ではなく、広岡為次といふ富める医者にて、その家の養子となった者であった、為次の養父には実子一人ありたるも、故ありて隠し置き堺の商人の子としてあった、その子が後年為次の家に尋ね来て、為次のためには弟なりと言ひたるを、為次は弟などは知らずと答へた、いづれも六十才に近き歳なれば旧き昔のことは他に知る者もないので争となり、奉行所へ訴へ出づることヽなった。為次の主張が通り白洲を退出せんとする時、定謙は呼止め為次に対し「古歌に『なき名ぞと人にはいひて有ぬべし心のとはヾいかヾこたへん』といふのがある、これは恋歌ではあるが、そのことわりは万事に通ずることなり、それがしの問に対し尤もらしく答へては居れど、おのが心に問はヾ何と答へるであらうかと尋ねたるに、為次は遂に弟の申すのが真実であることを承認した」と記してある、

    同じやうな兄弟の争が二つあったのか疑はしいけれども、藤田東湖が定謙より直接に聞いて記した「見聞偶筆」の事実が間違ないと思ふから本文の通り記したのである。

 


「矢部定謙」目次その6その8

大塩の乱関係論文集目次

玄関へ