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康熙帝、曾て沈徳潜の編輯せる清詩別裁に序して曰く、『詩者何、忠孝
而已耳、離忠孝而言詩、吾不知其為詩也』と、銭鎌益、明清両
朝に事へたるを責めて、其詩を擯斥し、前茅に列するを許さず、以て人
類に非ずと為す、其聖学を主として忠孝を口にする所、人をして感歎措
かざらしむるも、是れ即ち皮相を粧ふて、天下を瞞するの語なり、極
めて聡明卓越の士も、亦之に籠絡せられて悟らず、嗚呼、天下四海を控
制する者の心計、実に窺ひ易からざるなり、
柴舟と大塩と、独り着眼の相同じきのみならず、其学術、亦相似たり、
而して一は文章を以て自ら慰め、一は吏治を以て能名を得たり、大塩柴
舟の文集を読みて感悟する所ありしや否や、知り難しと雖ども、余は
其の読まざるものと考思す、翻刻二十七松堂集に塩谷宕陰の序あり、曰
く廖氏集、舶載少、監察妻木君酷好之、将梓之以恵後学云々、と
是れ文久二年にして、大塩の死後二十余年なり、大塩、若し舶載の廖集
を得てね之を読み、感発する所あらば、必ず其の剳記に於て記すこと
ありしならん、而して其議論の相似たる、殆んど廖氏の説を剽窃せし
かと疑ふほどにて、一言も柴舟に及はず、全く自家創見の如くに論断
せり、佐藤一斎も大塩に書を贈りて曰く、大の説御自得致敬服候、云々
と、全く大の説を以て大塩の発明と認めたり、大塩の学術大を以て
本領と為す、而して誰か知らん、是れ即ち廖柴舟の百数十年前に論弁
せしものならんとは、大塩決して他人の説を窃みて、自己の創見なりと
誇るものにあらず、故に彼は実に柴舟の文を読まざるものと断定せり、
其書を読まずして其識見を同うす、奇とは云はざるべけんや、
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沈徳潜
(しんとくせん)
1673〜1769
銭謙益
(せんけんえき)
1582〜1664
擯斥
(ひんせき)
しりぞけること
塩谷宕陰
(しおのやとういん)
1809〜1867
「佐藤一斎の大塩平
八郎に答えた書簡」
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