さて時は文政の十年と相成りましたが、茲に大塩平八郎が一世の伎倆を揮つ
しゆつたい そ
て吟味に取かゝらねばならんことが出来いたしました、幵は何事なるかと申
すまゐ み こ
しますると、其頃京都八坂に住居を搆へたる巫女に豊田貢といふ毒婦があり
まじな むさ
まして、色々の哭咀ひをいたしまして、多くの金銀財宝を貪ぼり、不義の富
くら
貴に耽り、貴賤の男女を迷はして居りますが、不思議に天下の目を眩まして
い なく
居ります、此貢に頼みさへすれば、死したる者が甦き、失したる物が出ると
いき
いふのでありますから、人々皆な八坂の生如来様と唱へて居りますが、其実
はつと く げ
は当時厳禁の耶蘇切支丹を広めやうとして内々貧乏公卿に金を送つて仲間に
ほか
入れ、其他貧乏人には金を施こして恩に着せ、其上で仲間へ入れるといふ寸
うはさ
法であります、然るに其風評が段々と高まつて参りまして、只今では大坂市
中でも其仲間になる者が大勢あります、之を賢明なる処ろの高井山城守かお
聞になりましたから、早速大塩をお召しになつて
「大塩、此頃風評に聞く処ろに由ると、京都八坂に陰陽師の巫女で、豊田貢
といふ毒婦があつて、多くの男女を迷はして居るそうじやが、予が察する処
ろでは何でも切支丹宗を内々弘めて居るやうに思はれるが、其方一ツ骨を折
て見て呉れ」
「ハツ畏こまりました、実は拙者も内々其ことに付て探つて居る処ろでござ
ります、然らば今日よりは一層念を入れて彼が行ひを察しませう」
「左様いたして呉れ」
と山城守の命がございましたから、平八郎先生、早速商人体に支度をいたし
まして、直ちに京都八坂へ上り、大坂浪花町の物持商人伊勢商人伊勢屋門兵
かゝ
衛と偽名を作りまして、豊田貢の弟子となりました、斯ることゝは知れませ
をし
んから、豊田貢は、毎日加治祈祷の法を授へ、内々切支丹の法を使ひまする
のを篤と見澄したる大塩先生、最早充分なりと思ひましたか、或日京都の与
まはり
力衆に頼んで貢の家の周囲を取巻て貰ひ、自分が二三人の組子を連れて貢の
居間へ飛び入りまして、大音上げ
「豊田貢、上意だ、尋常に手を廻せツ」
よば
と呼はりました、
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