Я[大塩の乱 資料館]Я
2016.3.2

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩平八郎』 その22

松林白猿 講演

安藤粛太郎速記(英雄文庫 9)萩原新陽館 1901

◇禁転載◇

第五席(2)

管理人註
  

されば是より大塩先生の雷名は大坂市中は申すに及ばず、日本六十余州に広 まり、皆其人物を慕ひ、其塾に入門するもの数を知らず、今では門弟五百人                                いつ からございます、されば大塩先生出でゝは町奉行所の吟味役となり、入ては                        たつ 五百の門弟を教導し、諸人よりは先生/\と敬まひ尊とばれる身の上と相成 りまして何不足なく其日を送つて居りましたが、不幸なることには実子とい ふ者がございません、養子の格之助さんを大事にして、心を用ゐて教導をい たしました、此人も塾生中抜群なるを見たて養子にいたしたる程の人物ゆゑ、       わかもの 当年十七歳の若年なりと雖ども文武の道に達して居りますから、諸人は洗心 洞の若先生といつて貴とびます、大塩先生は最早十九歳の時より与力の末席                                  ほと に出てまして三十六歳の今日まで十七年の間吏務に勤めて居りましたから幾                         おく んど役向に倦きて参りましたかから、格之助も最早人に後れぬ程の人物に相 成りましたに依て、格之助を与力に出し、自分は隠居をして門弟の教育にの                               かた/゛\ み力を用ゐんと思つて居りますが、高井山城守は老年でもあるし、旁々大塩 先生を非常に信用なすつて万事を任せてありますから、無理に辞職をする訳                          なん/\ にはなりません、此高井山城守といふ人は最早七十にも垂々として居ります、 されば此末長く奉行の役を勤めては居るまい、依て此人の勤めて居る内だけ 出仕いたして居やう、男子は己れを知る者の為めに死すとさへ申すことのあ    り、況してや共に事務を執る位ゐのことは何でもないと思つて毎日怠たらず                       あく 出仕いたして居ります、さて其年も暮れまして、明れば天保の元年と改年あ つて、其年の秋の初めに高井山城守は大坂東町奉行の職を辞しました、是に 依て大塩先生も七月の三日に辞表を上げ、養子の格之助殿を代らせました、 茲に於て高井山城守の跡へ参つたのが矢部駿河守でございます、此人も非常 の人物でありますから、深く大塩先生の隠居いたしたのを残念に思し召しま したか、職に就くことを承諾に及びません、其処で到底職に就ぬことをお察 しになつて、只だ時々大塩先生をお招きになつて政治上のことを御相談にな ります、大塩先生も其時は自分の存じよりを腹蔵なく申し上ますから、駿河 守も大にお喜こびになつて、ことある毎に御相談になります、是が駿河守の 賢明なる処ろで当時大坂市中で大塩先生の勢ほひは実に宏大なもので、其信 用の厚きことは御城代より奉行よりもありますから、若し大坂を好く治めて 置うといふのには、宜しく大塩先生の意を鎮めて置くが第一であると思ひま して、人を見ることが非常に早いから、万事大塩先生に御相談をなされます、 大塩の申し出したことは少しは道に外れて居ても大坂市中の人が承知をする            といふのであります、況して古今に秀でたる学者でありますから、決して道 に背いたことなどは申しません、依て上は奉行の信用深く、下は市中の尊奉 厚き大塩先生が斯様な名誉ある身分に相成りたれば、宜しく祖先の墓参を一 度いたさんと思ひ、天保の元年九月八日、大坂を出立に及びまして、八軒屋 から川舟に乗り、伏見に出で京都に上り、夫より逢坂の関を越て尾州名古屋 の在にある祖先今川氏の墓へ参り見ますると、石などは大に取乱れて居りま                  あつ すから、名古屋へ出で、新たに石碑を誂らへ、夫を建て、大に供養を営なみ 帰りました、

























石崎東国
『大塩平八郎伝』
その43










高井山城守
は東町奉行
(文政3年〜天保元年)
矢部駿河守
は西町奉行
(天保4年〜7年)







































石崎東国
『大塩平八郎伝』
その45


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