是よりいたして天保の三年までことなく何事のお話しもございません、然る
に天保の三年五月に至りますると、大塩平八郎先生の、最も懇親を重ねまし
ご
たる頼山陽先生が五十三歳を一期として京都に於て血を吐て没しました、此
もと
ことが大塩先生の許へ知れましたから、先生取るものも取敢ず急いで京都へ
上りましたも、哀しいかな、其の時は既に山陽先生が没して了いましたから、
大塩先生の悲しみ一通りではございませんが、如何ともいたし方なく大坂へ
がくしや あ と
帰りましたが、間もなく陽明学の始祖たる江州碩儒中江藤樹先生の遺跡が如
何になつて居るか、同じ学流の始祖たる中江先生の跡を一見いたし度と思ひ
ましたから、六月の炎天をも厭はず、門弟二人を供に連れまして、西近江な
る比良嶽の麓にある小川村といふ、元中江先生が居りました処ろへ参ります
よしず
と、幸はひ村の入口に小さな芦簀張の茶店がありましたから、師弟三人の者
は其茶店に寄りまして
「婆さんや」
「ハイ、是は旦那様方お出なさいまし」
「お茶を一つお呉れ」
「ハイ/\、晩茶でございます」
「何でも宜しい」
と其処へ汲み出す茶を飲みながら
「コレよ老婆、此村は小川村といふのじやな」
「ハイ/\、是から北が小川村でございますよ、此村は小村ではありますが
えら
豪い先生が出ましたから、随分名高くなつて居ります」
「ハヽア豪い先生とは誰のことじやな」
「ハイ、中江先生でございます」
「フーム、お前は中江先生を存じて居るか」
「イエ、私は知りはしませんが昔しから先生の咄しが伝はつて居りまして、
只今でも皆子供のある人は先生のお墓へ参つて信心をいたします、さういた
しますと其子供が物事覚へ好くなつて大層学問が好きになるといふのでござ
います、でございますから、此村では天神様よりも手習ひ子が信心をいたし
ます」
「左様かな」
げ
といつたが、大塩先生、老婆の咄しをお聞になりまして、実に中江先生の徳
かく
高くして今に至るまで斯まで人々は尊信をされるか、先生の徳は宏大なもの
である」
やが
と思つて、夫より老場に墓の道を教へられ、辿り/\て軅て中江藤樹先生の
うや/\ ひざま
墓前へ参りましたが、恭々しく躓づいて礼拝を遂げました、二人の門弟衆も
あつ そゝ まはり
先生の後ろに在て礼拝をいたし、花を手向け水を濯いて、軅て墓の周囲を先
生自身に掃除して其処を立ち去りましたのは実に感心の至りでございます、
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