河 合 (むッとして、腕組み)手前の申すのは金です。最初相場を引き
上げる、その開きの金の出所を申したのです。
あ
平八郎 無論、無論救助金が必要だ。最初買ひ煽ふる為には、十万や十五
すてがね
万両は棄金にするのだ。
河 合 ですからその金は何処から――
平八郎 聞け。その金は死ぬ金ぢやない。直ちに生き返る金なのだ。市中
に米が潤沢になれば、それだけお金蔵に富が回収されたといふもの
だ。富は天下の富だ、人民の富だ。政府や将軍の富といふものは有
るべき筈がないのだ。四民が窮乏を救はれるそれだけ、国家の富は
殖えてゐるのだ。この眼前の理がお前には分らないか。
河 合 (反抗的にしぶとく)分りません。
平八郎 何。
河 合 手前どもはね、今日先生の議論を伺ひにまかり出たのではござい
ません。組替一件でお訴へに出てゐるのでございます。
せうじん ぬし
平八郎 組替一件だ?……小人。(と憫笑して)お主はうぬが飯の上の蝿
より逐へないのか。天下の凶饉、生民の難儀を何んと見てゐる。あゝ
ん。.
吉見、袖を引いて制すれども、河合、真蒼になつて聞かず。
河 合 (顛へつゝ進み出て)小人でどざいますとも――。小人だ。手前
くわつけい
どもは活計が大事、若し組替になつて役方でも召し上げられると、
それこそ今日から路頭にも迷ひます。
平八郎 困つたやつだ。良知の学を何処へ学んだ。
河 合 お手前さまはね、余りに、弱い者を軽しめます。毎日一同が心配
たかみ
してゐるのを高処に眺めて笑つてござる。
瀬 田 (心配して)郷左、少し過ぎるぞ。
河 合 学者のお話は、どこを性根に聞いていゝか、われ/\蒙昧には分
りません。跡部さまを小僧だの小人のと云ふかと思ふと、今度は至
くんしじん
極君子人のやうなことを仰しやる。
い つ
平八郎 何日おれが跡部を君子人と云つた。
河 合 存じませんね。
河合、反抗的に空嘯き、腰の煙草入れなど出す。
瀬 田 郷左、今日はお前帰れ。
小 泉 然う激昂しては駄目だよ。話がまるで横道にそれてゐる。
庄 司 (静かに座を進めて)先生、これは少しく御思案を願はなければ
なりませぬ。先生は御信用なさいませぬが、今度の組替はどうも噂
だけとは思はれませぬ。
平八郎、河合を睨む。
吉 見 役所うちの取沙汰では、西組与力の内山彦次郎さまを東組へ廻し
て、当組支配役を仰せ付けられるなどと、専ら申して居ります。何
分にも跡部さまは悉く西方贔屓の様子で、われ/\東組の者はお屋
敷お出入りもかなひません。
渡 辺 今日もな先生、吾々の出勤刻限を西組から触れて参りました。斯
けんぺい
う何事につけて権柄が西へ移るやうでは、どうも困つたものと案じ
られます。
小 泉 そのほか何事につけて片手落ちの仕打ちが見えます。これでは到
底、組中一統職分が手につきません。
平八郎 (漸く河合から目を放し)おれは、それはいま騒ぎ出す時ではな
いうせき とき
いと思ふのだ。この上下憂戚の秋にあたつて、わが身構ひの問題の
み悲しむと云ふのは、ちとどうも……義に於て勇まぬところがある。
反省を加へたらどうだ。
小 泉 然しその前に、組替のお達しがあつては困ります。
平八郎 おれはそれは無いと云ふのだ。仮に跡部がそのやうな無法を行へ
ば、その時彼はみづからその非を負うてゐるのだ。
いきさつ
瀬 田 先生、然しこれは学問上の経緯もございます。内山はじめ西方一
同は朱子学を奉じてゐて、平素からわれ/\陽明学徒を嫉視してゐ
ざんばう
ます。天満の我儘学問とか大塩の気違ひ学問とか讒謗して、東組の
組下が大半先生の門下に団結してゐるのを憎んで居ります。そこへ
新来の跡部公は聖堂出身の腰抜け学問ですから、自然同舟相救ふこゝ
ろもあつて、飽くまでも先生が邪魔になるのでございませう。
平八郎 それぢや跡部は婦女子だ。
瀬 田 婦女子どころぢやない、わたしは佞奸者と思ひます。
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