瀬 田 (嘆息して席に戻る)然しこの度は……先生も苦しんだ。
小 泉 けれども名義は立ちませう。格之助さんとおみねさんとの約束が
変改になつた以上、たとへ養女に子を産ませたと云ふ蔭口はあるか
よめ
知らんが、養子のを奪つたと云ふ非難をうける筈はないと思ふ。
なア、渡辺。
渡 辺 拙者なども然う考へますなア。格之助さまには一昨年先生血統の
姪御さまを迎へて、既に許嫁の御披露まで済んだのだから、おみね
様と格之助さまの縁はきれて居ります。
瀬 田 然う云へば然うだが、兎にかく一度は……養子のにとして貰ひ
こ
うけたおみね様だ。それにおいくさんは、許嫁と云つても八歳の小
ども ち
児だ。些とどうも格之助君が腑甲斐なさ過ぎるよ。
庄 司 (嘆息して)困つたことでございます。然し又、あれまで苦しん
でござる姿を見ては、一概に先生も責められません。
なづ
瀬 田 格之助君の孝行はあまりに形式に泥むよ。あれは務めだ、真情が
ない。
庄 司 さやうさ……。(仰向く)
小 泉 (不服さうに) 然うかなア……。わたしは先生の恥にはならな
いと思つてゐた。
瀬 田 名目の問題ぢやない。心持の上の話だ。
小 泉 然し第一、格之助さんとおみねさんと結婚すれば、両方とも養子
養女で、大塩家の血統は断絶しますよ。おいくさんと格之助さんが
一緒になれば……
瀬 田 (嘆息)庄司、何んとかこれはならないものかなア。
庄 司 さやうでござりますよ。どう致しましてもなア……。
瀬 田 うむ。困つたことだ。
吉見、畳を突いて一同に注意する時、忠兵衛、腕組みしつゝ講堂
を出て来る。黙然と、そこに坐す。
平八郎、講堂の閾際に来り立ち、忠兵衛を鋭く凝視する。一同、
不安さうに気色を窺ふ。
平八郎 (暫くして鋭く)忠兵衛、何故無言で中座する。
忠兵衛 (固く腕を組み、瞑目のまゝ)このお答へは……容易にはなりま
せぬ。格之助さまの意見もござりませう。
平八郎 何? 格之助……。(一歩づつ出て来る)おれき貴公に話してゐ
るのだ。格之助ではない。
忠兵衛 (目を開かず、重々しく)わたくしも考へる。貴方もとつくり……
考へるが好い。(語尾すこし顫へる)
べんたつ
平八郎 わしの行為が不徳、不義――禽獣とでも責めるのか。その鞭撻は
もと
素より望むところだ。明らかに正面から責めてくれ。何を憚つて沈
黙するのだ。
忠兵衛 (同じ姿勢にて静かに)中斎先生、貴方は日頃われ/\にも太虚
の本性、虚無の至境を説かるゝ人ではござりませぬか。静かに良知
を致すべきはかゝる時かと思ひます。(微かに嘆息する)
平八郎 いや、その良知は、おれが事実を打ち明けた時、閃光一点、既に
お前の眼中に動いて居つた。おれは見た、それを見た。そのお前の
良知の声を問ふのだ。何故に断言を躊躇する。
忠兵衛、沈思、答へず。
平八郎 人を責め、吾を責め、これを厳に過ぎて悔まざるは吾が家の学風
けがれ
だ。友の不善を見て責めざるは、共にその汚穢を被むるものだ。柔
かうさ とどく
侫狡詐、是れ良知を賊するの蠧毒なり。忠兵衛、何故躊躇する、何
故沈黙する。
忠兵衛、無言。
平八郎 好し、もう聞かぬ。今日は矩之允が帰る。(歩む)おれの心上に
鞭撻を下す者は彼の外にない。おれは恥辱と、苦痛と、血涙とをも
やまひ
つてわが心を洗はねばならない。世に痛みなくして救はるる病患は
ない。おれの求むるは唯一つ、痛みだ。体にも、心にも、おれは痛
みを求めて進む。
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