森 繁夫 『人物百談』三宅書店 1943 より
◇禁転載◇
さて、静区の最期についてであるが、当時の大塩との問答は、穆の所記極めて簡明である。
初め大塩氏の乱を為すや、暁起宣言して曰く、従はざる者は殺さむと、穆聞て大に驚き、急に起て先生の牀に至る、先生従容して曰く、昨大塩氏、竊に余を招きて曰く、方今天下凶荒、餓途に相望み、而して発くを知らず、余目して見るに忍びず、因て蔵書を売りて之を救ふ、尚万一を救ふに足らず、余将に豪戸を屠つて之を救はむとす、卿が意如何と、余曰く図らざりき先生此言を出されむとは、夫れ救災恤民は、官自ら其人有り、況や豪戸を屠つて之を済ふ、是れ其民を救ふ所以は、即ち民を災する所以也、其の乱民とならざる者は幾んど希なり、苟くも余之を言ひて聴れざれば、則ち師弟の義永く絶ん、安んぞ乱民の為すところに従はむやと、彼れ余が従はざるを見て、温言之を謝す、然れども余固より其回すべからざるを知る、今事此に至る、固亦一死を以て弁ずるのみ
と、かうした末が遂に兇刃に殪れたのであるが、その頻末(顛末?)は之を幸田成友氏の著『大塩平八郎』所載の一項を籍り、こゝに引用する。
――良之進(岡田穆)は矩之允(静区)に随身して大塩邸に寄宿して居つたが、暴動の当日朝六ッ半時頃家内の建具を打壊す音に目を覚し、何事かと訝る間もなく、役立たぬ者は討捨てゝ仕舞へといふ声に吃驚し、飛起きて矩之允の臥床に近寄りその旨を告げると、矩之允も承知の体にて声を潜め、我師は短気の性分にて、平生門人を教へるにも抜身を振廻すやうな事もあるが、未明からの教授でもあるまいし、其上昨夜深更面会の節、若し天下に異変起らばいかが身を処するかと問はれた事を考合すと、何様大事を企てゝ居るやうに見ゆるが、昨夜はたゞ不審に心得たるのみで、碇と我師の心底を見極めたとはいへず、今一度と心懸けて居つた所、今朝の騒動、此上は時宜によつては師恩に頓着なく、平八郎を討捨て、拙者も即座に自殺するにつき、兼て京都東本願寺家臣栗津陸奥之助*1に貸置ける詩集を受取り、この碑文と共に兄下総の家来大林権之進に渡し呉れよ、碑文中には矩之允が最期の遣腸を認めてあるといつて、即座に美濃紙二枚続に一篇の漢文を認め良之進に手渡した。
其大意に、区々たる一包裏の汗血は数十年ならずして衰竭に就く、今日忠孝の具たるを併せ得たる我は天下の幸甚人である。噫慷慨難に赴くは易く従容義に就くは難し、明智光秀の宇野某に於ける、将門の六郎公連に於ける、身首を異にするも遂に能くその心を異にせしむる能はず、人世詩本粉本の称ありといふべしとあつた、
良之進は吃驚して尚よく事情を聞糺さうとする中に、矩之允は便所へ立ち、又塾外では大井正一郎と安田図書との話声が聞える、先生の御申付により矩之允殺す、若し逃出すやうなことがあつたら取押へてくれろとの正一郎の声音だ、彼は慌て、便所へ赴き、右の次第告げると、承知して居る、最早立退く隙もないが、正一郎を出抜き、今一度平八郎に面会したく、隠れて居る次第、その方は見咎められざるやう立退けと言はれた、然し師匠の大事と良之進は猶予決しかねてゐると、矩之允の為を思はば早々立退き、最前の文章を権之進に渡しくれよ、然らずば我が潔白の心事も知れ難く、残念なりと再三の言葉に、彼は漸く気を取直して塾中に取つて還し、混雑に紛れて裏口から抜出した、
正一郎は図書と相談の上彼を塾外に見張番とし、自分は進んで便所口に待つて居たが一向出て来る気合の無いので、刀片手に戸を明けながら、先生のお差図と声をかけ、立上つて来る矩之允の胸元を刺し、蹌踉く所を斬付け、乗掛つて止を刺し、矩之允を討留めたりと高声に呼はつた、
乱後矩之允の屍を検視したら、疵所は百会の後竪に六寸程切疵一ケ所、臍の上より背へ一寸程突疵一ケ所、咽喉に弐寸程、左の腕に一寸程突疵二ケ所であつたといふ、
辛うじて裏口から抜出した良之進は正一郎の声を聞き、師匠の敵其儘に置難しと思へど、遣言の旨も黙止し難く、一途に京都へ駈付け、廿日陸奥之助の手許から詩集を受取り、翌廿一日彦根へ赴き、権之進に面会して一部始終を物語り、碑文及び詩集を渡したといふ。
平八郎は何故矩之允を殺したか。挙兵の当日矩之允一人を殺したとて逃したとて、計画の成就不成就に差響くことはあるまい、平八郎も是位の事は能く知つて居らう。况んや矩之允は平八郎の愛弟子で経学詩文に秀で、在塾中の会釈も外門人とは違ひ、殊に西国遊学の餞別としては国光とかの拵付の刀を贈つたといふ位である、然らば平八郎が陰謀の成否に関係なき愛弟子の生命を絶つたは、時の勢に因つたものと解釈するより外は無い。
眼前に存する不同意者を見遁しては同意者の決心を鈍らしむる、縦令其不同意者は我に害あらざるも利なき限は除かねばならぬ。河合郷左衛門は正月に逃亡したが、其行先を尋ねて之を殺せといふ命令は無かつた、矩之允とても若し平八郎の眼前に居らなんだら、言換ふれば挙兵前に逃亡したら、この惨劇は起らずに済んだであらう、矩之允が平八郎の談論の尋常ならざるを訝り、『若不軽企含有之以故哉』と気付いたは十八日の深更といへば、此際逃出さうとすれば多分は逃得られたであらう、
然れども矩之允には今一応平八郎の存念を糺し、真に謀叛の企あらば飽迄も諌めやう、といふ親切な考があり、且つ縦令謀叛の企があつても、斯様に急に起らうとは思は油断もあり、十九日朝正一郎図書の密話を聞くに至つては最早万事休すと覚悟し、従容として死に就いたのであらう、
一方には幕府股肱の譜代大名井伊家の家臣として、又一方には厳格な中斎の愛弟子として、他に取るべき途を見出さなかつたのである、評定所の吟味書に、『短之允は力量勝れ、武術心掛も格別の旨申立候者も有之、前書良之進申口の趣にても、死を以国恩に報じ候心底と相聞、最朝の事実無余義次第も可有之』と深く同情を表して書いてあるには何人と雖も賛成するに躊躇しまい――。
とあるのを以て、よく其全般を尽してゐるものと思はれる、この美濃紙二枚続に、一篇の漢文を認めたといふその本文は静区の絶筆であり、且咄嗟の場合に作つたものとして、如何に堂々たるものであるかを示すために、こゝに其全文を掲げる。
区区一包裏汁血。不数十年当就衰竭。其他蛻殻亦不過奉螻 。今日乃得為忠孝之躯。豈非天下幸甚也歟。満腔熱血。意洒何地。于忠肅先得我心同然者。従容就義難。如平生養気。未必難。但如畳山公則実不易。段大尉象笏大是佳物。李懐光能異石演芬之身首。竟不能使異其心。宇野某之於明智光秀。六郎連之於平将門。亦可人。世有詩本粉本之称。予竊取孫忠烈。許忠節為忠本。畢竟使李
呑憾地下。
「大塩の乱関係論文集」目次