Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.2.10訂正
2002.5.15

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大塩の乱関係史料集目次


『天 満 水 滸 伝』

その18

石原干城(出版)兎屋誠(発兌) 1885

◇禁転載◇

適宜、読点を入れ、改行しています。


○宇都木敬治平八郎へ諌言の事 *1

是より先、洗心洞に学問修行の為にとて寄宿なし居る彦根藩士に宇都木敬治といふものあり(一名矩之助)、

父を宇津木下総といひ、井伊家の家老職を務む、敬治、人となり、文武を嗜み、君父に乞て、武者修行を思ひ立て、四ケ年前小者友蔵といへるを召連、生国彦根を出立して大坂表へ罷り越、洗心洞が名を慕ひ、大塩方へ至りつゝ、師弟の契約を結び置き、夫より西国九州へと修行の為に出立しが、

当年ハハヤ帰国の期(とき)とて、急ぎ西国を出立して、二月十七日の黄昏ごろ大坂まで立帰り、先大塩が宅へ着しに、平八郎も、予てより敬治が器量を見抜し事ゆゑ、一味させんと思ひ居れど、渠(かれ)昨今の弟子と言ひ、迂闊に事ハ談じ難し、又談ずべき時節もあらんと扣へ居しが、今ハハヤ斯の次第に立到りしかバ、包むべき処にあらずと、敬治を我前に呼出し、始て一大事を打明し、一味連判なすべしと言ふに、敬治ハ甚(いた)く驚き、此程屡々(しば\゛/)大塩が挙動(ふるまひ)等に目に着(つく)るに、其意を得ざる事多く、訝しき事のみにして、天下の政事を誹謗なし、夫のみならず、物事に只歎息する其有様、若やあられぬ企てをするに於てハ、身に替て我信義を以て諫むべし、と心を決し居ける時ゆゑ、今平八郎が一言を聞て、扨とハ手を打て、

夫は先生にハ物にバし狂ひ玉ふか、情なや、今天下泰平の化、普(あまね)くして、徳又深く遠く流るゝ、爰に凡そ二百余年、上古と雖も是を増んや、今其故を如何に、

といふに、

四海平革して夷狄服し、海外の珍器皆爰に湊(つと)ひ、都下の遊民糠食の者迄美服玉食して飽を知らず、王公貴人と差別なし、其富豪の者に至りてハ、玉を炊(かし)き桂を焚(たき)、多くの妻妾を蓄へて、酒池肉林の遊に耽り、金銀を費す湯水の如く、其奢侈淫逸言に堪へ、是又憎むべきなれど、是も太平の徳化にして甲(かれ)費せバ、乙(これ)所得て、到底(つまり)天下の融通となれど、近年諸国凶作して、当年に至り酷だしく、天下饑饉に及ぶと雖も、豈是朝政の得失に因て、天より災害を下さんや、
天ハ元より至大至高に、仮にも不仁あることなし、其霖雨暴風止(やむ)時なく、時候の調陽せざるものは、所謂廻合悪敷のみ、
既に尭の如き徳ある天下も、洪水更に止まらず、湯王の天下も七年の間日照なすと聞及ぶ、先生も又、何故に数代の恩禄に飽たりとて、何ぞ是を足ずとして、彼宋賊が所為に習ひて斯る企てをなし玉ふや、
石を抱いて淵に望み、鶏卵を以て岩石を砕く譬も目前(まのあた)り、必ず成功ある事なく、終にハ其身死刑に処せられ、先祖の血食を断滅し、無辜の妻子をも厳刑に所せられ、其臭名(くさな)を百年に遺す、
豈忌ハしき事いふに詞なし、唯願(ねがは)くハ、本善に立帰り、士道を守りて潔よく自殺なし玉ふ上からハ、家名を失ハざるにも至らん、何卒思ひ止まり玉へ、

と声を励し、色を正し諌けるに、

平八郎ハ是を聞より冷笑し、

如何に敬治熟(よく)聞べし、汝が言事極て善(よし)、然れど斯迄思ひ立し大事を、今更止まらんや、一味を断る上からハ、唯今一命を申受べし、誰ぞ有る、渠(かれ)を討留べし、

と大井正一郎へ目配せしけれバ、

心得たりと正一郎ハ、長押に懸し鎗押取、宇都木敬治に打向ひ、

如何に宇都木氏覚悟あれ、御手前の一命ハ、師の命により此正一郎に賜ハるべし、

と呼はりつゝ、鎗を捻つて突掛れバ、敬治ハ驚く色もなく、突懸る鎗を引外して、両肌脱でどつかと座し、腹を目前(めさき)に突出し、

斯あらんとハ兼ての覚悟、イザ十分に突留られよ、

と言間もあらせず、正一郎が繰出す穂先に無漸なや、胸板ガバと突貫きしに、二言と言ハず死してけり、

敬治当年廿九才、一座の面々、正一郎が手練ハ暫く論なきも、敬治が度胸の据りしにハ、驚き感じて止ざりしと、

(やが)て死骸を庭へ引出し、大木の梅の枝に打懸、

此は首途(かどいで)の血祭りなり、

と皆々之を祝せしとぞ、

(そも)宇都木敬治は、此前夜、身を殺しても大塩を諌めんものと思ひけれバ、故郷彦根の父が許へ一書を遣んと、窃に認め、僕友蔵に是を持せ、彦根表へ出立させしに、彼の僕、途中に大坂に事起りしを打聞て、心も空に急ぎ行き、大津の駅まで来りし時、代官石原清左衛門が支配に怪しと召捕れ、大坂町奉行へ引渡され、其廿二日お調べ有しに、彼懐中の手紙をバ、恐る\/差出したり


管理人註
*1 本文には見出しなし。


『事実文編 宇都木敬次告訣手簡


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