Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.8.13訂正
2002.4.19

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大塩の乱関係論文集目次


「『浪華異聞』を読んで」

その2

向江 強

大塩研究 第20・21合併号』1986.3 より転載


◇禁転載◇

 摂州東成郡沢上江(かすがえ)村の百姓与一衛門忰孝太郎戌二拾四歳(戌年は天保九年)の場合をみてみよう。孝太郎は大塩平八郎の門弟で文政十二年に入塾、天保六年には農業手伝いが出来るようになった(二十才)ので退塾していた。天保八年二月十五日、孝太郎が平八郎と面会した際、平八郎「忠孝之端に可相成事ハ如何様之儀も平八郎差図に随ひ可申趣」の誓書に血判せよといわれ「無何心自筆ニ而名前認血判」して立帰った(傍点は筆者)。その後二月十八日に平八郎方から呼びに来たので出向いたところ、米価が高値で諸民が難渋しているので所持の書籍類を売り払って窮民に金壱朱を施行したいから世話をして呉れといわれている。その際施金を与えた者には天満辺が出火の時には平八郎方に駈付けてくれるよう申し伝へることが命ぜられた。孝太郎は平八郎から九十九枚の壱朱金を受取って帰村し、村内や近村の者達に渡して歩いた。十九日朝六ッ時頃壱朱金の渡し方もすんだので平八郎方に来たところ、黄色の絹の袋に入って「天被下候」としたため、裏に伊勢太神宮の祓礼を結び付けたものを三枚渡され、これを所々に置き捨ててこいといわれた。また格之助の屋敷の溜池を埋めるので人夫を四・五拾人早急に寄こせともいわれている。孝太郎は、何か子細があるのだなと気付いたが、平八郎は「短慮之生質」なので理由をきこうものなら定めて立腹するだろうとそのまゝ帰村した。途中善源寺村で佐七外壱人にあい、この者達は壱朱金を渡していたものでもあったので平八郎方で人足が入用である旨話をした。その後、袋に入った書物を不審に思い密に開封して一覧したところ容易ならざることが書いてあり、驚いたが、平生、平八郎は自分の心にそぐわない事があれば打果すといっており、もし違背したらどんな後難がふりかかるかも知れないと考えつつ帰宅している。その後孝太郎は平八郎から頼まれたとだけつげて、檄文を親与一衛門と沢上江村庄屋平次郎、嶋村の叔父四郎兵衛に渡し、その外近村の所々に置き捨てている。ところがその後、平八郎が徒党をもよおし大坂市中に放火し乱妨したとのことやこの企にかかわった者などが召捕られているという風説をきき、残っていた檄文四・五通は引裂いて取捨てた。しかしこのように平八郎の差図に従って行動した上はとても罪科はのがれがたいと一旦は逃走したが召捕られている。

 以上は孝太郎の自供によるものである。しかし、評定所は次のように云っている。「実ハ平八郎企ニ一味同意之上誓詞連判いたし、徒党人数呼集之手段等申合、右徒党ニ加り及乱妨ながら今更品能申紛候儀ニ可有之哉与再応吟味仕候処、平八郎企之次第前以相弁罷在候儀ニハ決而無之旨申之候得共、右始末不届之段吟味詰候処、無申披誤入候由申之候」。これによって孝太郎は死罪となっているが、評定所が再応吟味した諸点を孝太郎が認めていれば当然磔か獄門はまぬかれなかったであろう。評定所は、孝太郎に限らず徒党の者がうまく云い逃れようとしているのではないかと疑い、すべての逮捕者に対していわゆる「再応吟味」を行っているので「今更品能申紛」らすことは至難のわざであったろうと思われる。

 次は尊延寺村の百姓忠右衛門と無宿新兵衛の場合をとりあげよう。彼等両名は、一旦は「品能申紛」らしたものの、吟味が進むなかで最初の申立てが嘘であることが露見し、遂に獄門という極刑に処せられた。忠右衛門・ 新兵衛とも最初奉行所での申口では、才次郎の強勢に恐れ、大坂へ附添って来たとのみ申立て、罪過を遁れようとしたが、尊延寺村の逮捕者の供述から才次郎の差図に随い、大塩に荷担した者として断罪された。

 いま一つの事例は、世木村百姓次三郎戌三拾三歳である。次三郎は般若寺村の忠兵衛から施行札を請取り、引替に金壱朱を受取った節、出火の折には平八郎方に駈付けるよう言われていた。次三郎は深く平八郎を信じており、この施行も平八郎が真実仁慈の精神で実施したものであり、奉行所がいうように平八郎の計画成功のための手段であるとはどんなに説諭しても納得しなかった。次三郎の考えでは、平八郎が叛逆を企てた結果、真実施行の恩恵まで手段のようになってしまったのであって、本来平八郎の民を吊うという精神は決して悪いものではなかったという認識である。本文では「無意之愚案に取紛白洲江手を突候儀も打忘れ罷在候処、失体の段察度有之候上心得方をも糺受候間、右内存之程申立、猶吟味中平八郎巧之次第逸々相弁、先非後悔恐入候犠之旨申之候ニ付」という風に書かれていて、『浪華異聞』中異色の内容となっている。次三郎としてはあくまで自説を申立てたため、白洲に手をついているのも忘れて察度(咎)をうける結果となった。又奉行所の側から平八郎の計画のいちいちを説明され、ようやく先非を悔い、恐れ入ったというのである。このため次三郎は不届であるというので所払となった。事実として騒動に参加していなくても(評定所側もこれを認めている)このような刑をうけるのであるから、次三郎の勇気は特筆されてよい。

 この様にみてくると、以上の三例からは、ほぼ真実に近い内容を認めうる。ただ施行札の配布や、溜池埋めのための人足の動員が、挙兵のための謀計であったかどうかについては或は評価が別れるかもしれない。


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