Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.5.22修正
1999.9.10

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大塩の乱関係論文集目次


「大塩「建議書」幕政の腐敗醜状を告発」 その1

−不正無尽・矢部定謙をめぐって−

向江 強

大塩研究 第38号』1997.3より転載


◇禁転載◇

(一)

 一九九〇年、仲田正之氏によって史料『大塩平八郎建議書』が刊行されてからすでに六年有余を経た。この間「建議書」について一九九三年三月、本研究会とリバティ・おおさかの共催による〃大塩平八郎と民衆−生誕二〇〇年記念−展〃における〔文化フォーラム・第一部検証「大塩の乱」〕での相蘇一弘、臼井寿光、仲田正之、森康彦などの各氏による討論、また一九九五年一一月大塩事件研究会二十周年記念シンポジウム〔『大塩平八郎建議書』を検証する〕において、相蘇一弘、内田九州男、藤田覚の三氏の各報告がなされた(『大塩研究』三三・三七号)。

 また「建議書」研究に関連する著書・論文については、藤田覚著『政治改革にかけた金権老中水野忠邦』、森田康夫著『浪華異聞・大潮餘談』などの著書があり、『大塩研究』には、向江強「檄文の思想を探る −天人相関説・革命論・箚記・建議書−」(三〇号)、安藤重雄「『江川英龍画 甲州微行』考」(三一号)、井上準之助「『洗心洞通信(26)』に寄せて」(三三号)、島野三千穂「大塩平八郎の久世広正等に対する告発 −干鰯仲間株を中心として−」(三四号)、藤村潤一郎「大塩一件と飛脚問屋」(三四号)、相蘇一弘「大塩の林家調金をめぐって」、藤田覚「『大塩建議書』の政治史的意義」(いずれも三七号)などがある。また井上準之助「無尽講についての若干の考察 −いわゆる大塩平八郎建議書類とも関連して−」(『東京国際大学論叢』経済学部編、第四号、一九九三年)、なお相蘇一弘「大塩の乱の当初計画について −大塩はなぜ自決しなかったか−」(『大阪の歴史』二一号)は、青木美智男氏の「箱根山麓豆州塚原新田で発見された大塩平八郎関係書状類」を踏まえたものである。この外、井戸田史子「大塩平八郎の建議書作成目的について」(『人文論及』〔関西学院大学人文学会〕第四五号)などがある。

 主として研究の内容を見ると、いくつかに大別できる。

 第一には、建議書が告発する不正無尽に関するものが挙げられよう。前記、藤田覚・森田康夫・井上準之助氏のものにみられる。

 第二には、大塩の林家に対する金の調達をめぐる問題である。相蘇一弘・森田康夫氏が主として取り上げている。

 第三には、大塩が「建議書」を乱の直前に幕閣に送付した目的に関するものであるが、付随して種々の問題が見られる。特に『大塩平八郎建議書』の仲田氏の「解説」が論議を呼ぶものとなっている。仲田氏は、大塩がこの資料を個人の栄達のために利用しようとしたのではないか。大塩の江戸出府、旗本としての就職運動、江川担庵の建議書についての評価などについての発言が問題とされている。これについては相蘇・森田の両氏が言及している。

 第四には、大塩が告発している矢部駿河守定謙の行動と評価、大塩と矢部との関係などに関するものであるる。これについては、まだほとんど解明されていない。

 第五には、西町奉行所与力内山彦次郎といわゆる四カ所の非人に関する問題である。「建議書」シンポでの内田九州男氏の報告(文章化されていない)があるが、これも研究は緒に就いたばかりである。これには、西町奉行所よりの貸付金取込事件、内山彦次郎の堂島米市場撹乱事件等々が含まれており、いずれも解明を要するものである。

 第六には、内藤隼人正・久世伊勢守・戸塚備前守などの不正事件に関するものである。島野論文が久世伊勢守・戸塚備前守についての問題を解明している。

 このほか細かい問題点はいくらも存在するが、いずれも派生的なものにすぎず、以上の六点に集約できると思われる。

 本稿では、不正無尽、「建議書」提出の目的、矢部定謙などの問題に絞って筆を進めたい。

(二)

 不正無尽の件については、「建議書」の冒頭に次のように記されている。

右の記述によって不正無尽をみると、まず大久保加賀守忠真(老中〈文政一〜天保八〉、大阪城代〈文化七〜文化一二〉、相模小田原一一万石)が京都所司代の時〈文化一二〜文政一〉、禁制の無尽を催し、この無尽を企画した町人へ、金作りの大小までも与えた。松平和泉守乗寛(老中〈文政五〜天保一〇〉、京都所司代〈文政一〜文政五〉、三河西尾六万石)・松平伯耆守宗発(老中〈天保二〜天保一一〉、京都所司代〈文政一一〜天保二〉、大阪城代〈文政九〜文政一一〉、丹後宮津七万石)は、大阪で獄門になった八百屋新蔵、自殺した大阪西町奉行所与力弓削新右衛門などに依頼し、無縁の町人を相手に無尽を企て、八百屋新蔵には、扶持方や羽織などをも下賜した。水野越前守忠邦(老中〈文政一一〜天保一四〉、京都所司代〈文政九〜文政一一〉、大阪城代〈文政八〜文政九〉、遠江浜松六万石)も、一心寺を宰領した牧野権次郎とその兄八田衛門太郎(いずれも大阪東組与力、前稿『大塩研究三〇号』では、江戸から下向した役人という解釈で記述したが、島野氏の指摘により訂正する。なお同稿では、不正無尽事件と八百屋新蔵・弓削新右衛門等の関係について誤った理解があり、此の際改めたい)等に立ち入りを命じ、無尽の企てがあったが、新蔵などの一件が露見したため、中止したものである。

 このような因縁から、権次郎などには不埒者という風聞があったにも関わらず、吟味中に羽織・品物などを差し遣わす程の身の脩まり方で、水野出羽守忠成が生前中、意見などを加えられなかったのは道理であるが、破損奉行一場藤兵衛外二名のものだけが吟味となり、それぞれお仕置きとなったのでは、到底だれも納得していないのである。

 これによって先頃調えた、無尽の取調帳・名前書共二冊、その外証文写類並びに書き付け共返却する。以上の事を承知されたい。

 これによって見ると、不正無尽に関係したのは、老中の中、大久保加賀守・松平和泉守・松平伯耆守など三名、水野越前守は新蔵一件で無尽は中止したが権次郎などとはなおつながりをもとうとしており、計画を捨てきれない様子が窺える。また無尽の仕掛け人であり、プロであった八百屋新蔵・弓削新右衛門、またこれに類する牧野権次郎・八田衛門太郎などが、当時は大阪城代若しくは京都所司代であった幕閣の中枢に取り入り、彼らの利益のために奉仕していた。

 一体、八百屋新蔵・弓削新右衛門などは、大塩平八郎によって文政十二年に処断された者である。これについては前稿(三〇号)で述べたので詳しくは言及を避けるが、『塩逆述』巻之十一(遺臭叢残巻之十一)に「弓削ノ一件」として記されており、まだ言及されたことのない史料でもあるので紹介したい。

 弓削一件については、『浮世の有様四』<一五、文政十二年大塩の功業>に詳しい。四ヶ所の者の記述については、前掲『塩逆述』とほぼ同様である。しかし、いずれの史料も不正無尽については、触れていない。大塩自身の回顧によっても、かならずしも明瞭ではない。大塩は『辞職詩并序』において次のように云う。「一二年己丑春三月、公又命余糾察猾吏姦卒、与豪強潜通隠交、以 政害人者、而其所汪連及要路之人臣僕、歴世之官司非不知之、蓋有所怖且憚而遁之歟、若爾不憂世思民之甚者也、余感公之忠憤、終置禍福利害於度外、潜図密策、施疾雷不掩耳之遺意、以摘其伏、発其姦、魁首自刃、余党各就刑于藁街」つまりここでは、其の汪連するところは要路の人臣僕に及ぶといって、無尽の事件を表沙汰にできなかった理由を暗示している。

 大塩が深く潜通隠公して調査した不正無尽の全貌は、この建議書によってようやく明らかになったのである。この内容に踏み込む前にいわゆる無尽について、また武家にとっての無尽について述べておく必要があろう。

 一般に無尽は、中世以来広く利用された金融の方法で、頼母子ともよばれた。無尽のやりかたは、共同の出資者が定められた会合日に出資する金銭または物資をもって集まり、籖または入札によって順次に財物を取得する。一巡すると各自は出資と同額の財物を得てその無尽は完結した。無尽運用の組織方法としては、(一)第一回取得者を決めておく有親無尽と、全員平等の親無無尽、(二)取得者の決定方法(抽籖か入札か)、(三)取得者の返済分に利子を加算するかどうかなどを組み入れて決められた。

 無尽の種類としては、講員の相互扶助が目的の小規模のもの、加入を強制して搾取を狙う藩営無尽、農業・商工業の資金調達、資金回転を計る金融手段、無尽の手法をかりた蓄財などの外、取退(とりのき)無尽は、当たった者だけが金銭をもらい、他ははずれになり、掛け金も一回限りで解散するもので、射倖性が強く大規模なものは、富籤の変名として悪用された(この解説は『国史大辞典』による)。

 幕府はこれらの無尽の内、取退無尽については、早くから(享保頃)これを禁止していた。「御定書百箇条」などでは、博奕・三笠附などと共に厳しく取り締まっている。遠島・家財取上、非人手下・江戸払い・過料などの刑罰が課されている。

 『御触書天保集成下』によると、

右によれば、頼母子といって、親類や懇意の者が、異変や相続等のために行うものは、跡金などもあって違法とはされていなかった事が明らかである。ただ融通講と称し、大規模且つ大金を動かす遣り方は、自然違法となるといっており、新規の企てなどは許さないとしている。

 次ぎに大坂での無尽に関する「触」を見ると

 とあって、いずれも取退無尽を禁止している。特に文化七年の「触」は、幕府の寛保元年の「触」に基づくものであることが知られる。これによって『御触書寛保集成』を見ると、同趣旨の「触」が出されている。これによると最近、「寺社建立講又は品々之講と名付、取退無尽」が行われており、この様な事が露顕すれば、武士方・寺社方・町方・在方を問わず吟味し、当人だけではなく地主・家主・五人組・名主一町内の者共まで咎申し付ける、という厳しいものであった。

 このことと同時に注意すべきことは、武家方では、取退無尽だけでなく一般の無尽も禁止されていたことである。これは、藤田覚氏の研究によって明確になったものである(『政治改革にかけた金権老中 水野忠邦 』)。藤田氏によれば、『御仕置例類集』に武家の家来が、たとえ頼母子無尽であっても行うことは、押込めなどの刑罰に処せられることが明確であること。また老中水野忠邦が、文政十三年四月に国元浜松の家来に宛てた手紙を引用して、忠邦が武家の無尽は違法であることを知りながら、上方などでの無尽の隠蔽工作をおこない、藩領内では続行するなど、「大塩が知ったら怒髪天を衝くがごとくに怒ったであろうほどの汚い手」を使って、まんまと逃げ延びた次第を明らかにされたのである。 藤田氏は忠邦の手紙を分析して次の諸点を指摘されている。

@ 武家の無尽は違法であると承知していること。
A 武家がその違法な無尽を行っていることが、将軍の耳に入り、公に取締りの指図が出れば、小堀和泉守の例もあり大変なことになるので、武家無尽を早急に整理するようにと、内々の沙汰があったこと。
B 実態調査のなかで、堀近江守の無尽はとくに不法なので、やめるように親類である水野忠邦からつたえること、そして、このようなケースは同僚の老中にもあること 
C 水野家の無尽も、浜松領内は除いて京都、大坂、堺、大津、江戸などのものは止めて、借用証文か、年賦返済証文に書き替え、無尽講の仕法書や規定書は証拠書類になるので回収し、焼却処分すること。
D 取退無尽や掛金より受取金のほうが多くなるような無尽、また講元に益金が残るような無尽はとくに違法なので、至急中止すること。
E 無尽を至急整理せよという内々の沙汰は、老中が集まったその場かぎりの極秘の指図なので、決して外に洩れないようにすること。

 大塩は「不正之無尽取調書」を、文政十三年四月頃には提出していると思えるので、水野忠邦の手紙と時期が一致している。おそらくは、老中の無尽対策協議は大塩の報告書に基づくものではないか。但し、この時水野忠邦は西丸老中で、本丸老中になったのは天保五年三月である。したがってこの時の老中筆頭は水野出羽守忠成である。藤田氏が指摘しているように、大塩に不正無尽の調査を命じたのは、水野忠成であるのはまず間違いないものと思われる。忠成がこの資料を如何に使ったかは、これまた藤田氏のいう通りであろう。

 次ぎに大塩の提出した「不正之無尽取調書」は、どのうな内容を示すのかを探るのが次の課題である。大塩の調査が始まったのは、文政十年である。取調書の冒頭大塩は、次のようにかいている。



 右によると、無尽の仕法書は、計算に明るい者共が素人に分かりにくいように、作り上げているので、仕法書だけをみたのではよく分からないようになっていることが分かる。

 大塩は、これに聞き込みや自らの分析を(朱書)加えて報告書を作成している。

 とりあえず、幾つかの例を取り上げてみよう。

 はじめに記載されているのは、相州荻野山中・一三、〇〇〇石、大久保出雲守教孝が無尽元となっているものである。出雲守は、老中大久保加賀守忠真家の分家である。

 「年賦割済仕法帳」によると、金主は九〇人宛三組で二七〇人である。三年三六ヶ月、一人一回金一分の掛け金で、一人前は金九両の拠出となり、全体では二、四三〇両となる。分配は、四ヶ月目毎に集会し、一回に三〇人づつ振鬮できめ、九回目で満講となる。

 大塩の計算では、九回の割り戻し金の総額は、八四六両となる。この外鬮当たり金が少なく、あるいは一度も鬮に当たらなかった者へは、満会の時それぞれ甲乙をつけて割り戻した。また集会の節、割り戻し金が当たらなかった者へは、一人に一朱づつの利息二四〇人九回分一三五両が分配された。さらに回毎に、酒肴料として南鐐二朱が配られ金三〇三両三分程が分配されている。また最初の集会時菓子料として一人銀二匁、二七〇人分五四〇匁、一両六〇匁替えで、金九両が支出されている。こうして残った金額は、金七一六両一分となり、無尽総額の約三割が無尽元大久保出雲守の徳益となった。

 大塩は、正路の無尽ではなく富に似たものだと断じている。

この無尽の世話方は以下の通りである。

 次に堀近江守の場合を見よう。「無尽仕法書」をみると、調達銀主人は六〇人で、一人銀二〇〇目を一年に二回徴収し、一五年に元利を返済する。返済は振鬮入札をもって行い、当日出銀持参の者へは銀二匁を渡す。会日出席者へは、焼物料銀一匁を渡し、出席者中へ菓子料銀二匁を振鬮により三〇人へ渡す。なお会日不参者へは、膳料として銀一〇匁を渡すとなっている。 

 大塩は、朱書き解説の部分で、文政七年五月より、取退に似た無尽で、六〇人と決め掛銀は一人前銀二〇〇目より一〇〇目までのうち五度目毎に二〇目づつ掛銀を減らし年に二回宛の積もりで、一五年に満講となり、合わせて三〇回の集会をなし、銘々鬮取又は入札をもって割り戻しを行い、講元徳益などを算出した。大塩は三〇に及ぶ会合の毎回の掛寄高、鬮又は入札による割り戻し高、無尽元徳益などを細かく計算している。繁雑なので、今はこれを略す。最後に満講の時、鬮・入札に当たらなかった者へ、一人前銀五貫三〇〇目づつ銀一五九貫目を渡し、二四回目よりの渡し方不足分銀八貫五九〇目、又毎回六〇人へ焼物料一人前四匁三分づつ都合三〇回分、尤も不参者へは膳料銀一〇匁づつ分配することとしたが、人数が決められず、大凡で見積もり銀七貫七四〇目、又毎回三〇人へ菓子料振鬮をもって分配し三〇回分として銀一貫八〇〇目となる。

 以上の四口を合計すると無尽元の出銀総額は、銀一七七貫一三〇目。益銀総額は、一二五貫五四〇目となる。従って無尽元は銀五一貫五九〇目の損失となる。しかし、この益銀一二五貫五四〇目を一五年間月一分の利息で廻せばその利益は、およそ銀二二六貫一二二匁となる。これより損料を差し引きした利潤は、銀一七四貫五七二匁程になる。これは、銀六〇匁替えとして、二、九〇九両程となる。

 仲田正之氏の解説では、益銀を一七四貫二三二目としているが、これは大塩が不足銀八貫五九〇目を八貫八九〇目と書き誤り、且つ計算の時一七四貫五七二目と書き損じているので、正されたものであるが、筆者の計算では一七四貫五三二目とすべきである。

 この外一四回の入札時に引銀がつき講元の利益となるが、これは金額が不明なので前記の計算には入っていない。大塩の計算中利銀や残り利潤については、「相成候由」とか「相成候取沙汰ニ而」という文言もあり、にわかには信じ難いところもある。特に利息の計算では元金の算定にやや無理がみられる。前記大久保出雲守の例に比べての特徴は、人数は六〇人と四、五分ノ一に過ぎないが、期間は一五年と長く、しかも不足銀が出ても利息銀によって利潤を生み出すなどの点がみられる。

 なお世話方には、堺紺屋町目古池善右衛門、同所魚店東本町笠屋喜兵衛、同所寺地町中浜細谷源右衛門、同所湯屋町北村弥七、同所殿馬場町茶碗屋市兵衛など堺の町人たちがこれに当たっていた。

 最後に池田新兵衛(大坂材木奉行)の無尽を見よう。調達講仕法書には、金主は一五〇人、一人前南鐐一片(二朱)を毎月集め、四ヶ月目に割り戻し会を開いた。初回は、四ヶ月分二百疋(金二分)を会席に持参することし、次回より毎月弐朱づつ取り集めた。但し、一年半で満講としたので、掛け金総額は、弐両弐分で相済ますとした。

 割り戻しは、毎回三〇人づつ左の方法で行うとしている。

@  鬮に当たった者は、満講迄の掛け金を納めること。尤も一人目と三〇人目の鬮に当たった者は、満講迄の掛け金を勘定元へ預かり、残金はその席で渡す。一五人目に当たった者は、掛け金と半金を預かり、二人目より一四人目迄、一六人より二九人目迄当たりのものは、後回迄の掛け金を預かり、残金を渡す。

A  回毎にお茶漬けを出すが、掛け金を持参しない者は本鬮と菓子料は出さない。但し回 毎に菓子料は、振り鬮をもって以下のように渡す。

 合計三八人へ毎回渡す。これを五回繰り返して満講とした。

 満講の時、一度も鬮に当たっていない者に金三〇両を分配した。金二分、一度だけ当たった者へ金一五両を分配した。金二分、二度当たった者へ金一〇両を分配した。金五両を一五人目、一度だけ鬮に当たった者へ分配した。  大塩は、総寄り高金三七五両、割り戻し総高金一五〇両二分程、引き残り徳益金二二四両二分程と計算している。しかしこの内に諸雑費・世話料などが含まれており、その金額は不明とし、正路の無尽ではなく富に似たものである旨の認識をしめしている。

 この世話方は、南久太郎町四丁目吉納屋善十郎、梶本町巴屋栄助、江戸堀弐丁目大和屋次兵衛の三人である。

 以上大塩が調査した不正無尽二九例のうち代表的なもの三例を見てきたが、ここで明らかになった点を整理しておこう。

(1)大塩の分析と評価(朱書)は、いずれも〔取退無尽〕か〔正路之無尽ニ者無之富ニ似寄候儀〕と言って、不正な無尽と断定している。しかし大塩が、正路の無尽ではないと認識している点からすれば、かりに大名寺社が講元であっても、正路のものであればよい、と考えていたのではないかという疑いが残る。勿論不正の方法によらなければ、莫大の徳益は得られないのではあるが。

(2)こうした一見正路に見まがう無尽を仕組む、八百屋新蔵などの所謂「無尽仕組巧者之もの」がいて、世話方の町人達とともに、大名の不正無尽に手を貸し、同時に彼らもそのおこぼれにあずかっていたと見られる。しかし大塩の調査は、さすがにベテランの与力にふさわしく徹底したもので、いずれも大塩の厳しい眼を逃れることはできなかった。

(3)仕組みの方法は、いずれも賭博性が強く無尽元に莫大な利益を齎すものであった。

(4)大塩が書き上げた「武家方宮方寺社無尽名前書」は、現職老中松平和泉守、松平伯耆守をはじめ、大名旗本など六二家。宮方は、大覚寺宮をはじめ一三家。寺社方は、河州岸野堂長楽寺はじめ六二社があがっている。大塩は、数多くの無尽の内、御法度のものもあると思われるけれども、調査してみなければ分からない。しかもこの四月以降については新規のものも無く先ず穏やかであること。無理に四月以前に逆上って穿鑿して、無尽が崩れるような事態になれば、これまでの加入者の多分の掛け金が損となり、却って迷惑となり、人気に拘わり甚だ混雑することも考えられ、探索も密かに行った旨を記している。




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「浮世の有様巻之四・文政十二年大塩の功業


「大塩「建議書」幕政の腐敗醜状を告発」 その2

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