Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.5.22修正
1999.9.10

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大塩の乱関係論文集目次


「大塩「建議書」幕政の腐敗醜状を告発」 その2

−不正無尽・矢部定謙をめぐって−

向江 強

大塩研究 第38号』1997.3より転載


◇禁転載◇

(三)

 矢部駿河守定謙(一七八九〜一八四二)に関して、大塩の評価は極めて厳しいもので、「何様陰謀を以同役を罪科ニ落シ入候巧事致し、古より国を乱候奸侫皆駿河守之類ニ而、御老中職之各様方其心中之悪を御見抜無之段、何共歎ヶ敷」とまで極言している。

 一体、矢部駿河守に対しては、大坂町奉行在任中は大塩と親しく、天保の飢饉に際しては大塩の献言を容れて米価を調節、また諸民の救恤にあたり、名奉行とうたわれた。また川路聖謨、岩瀬忠震などと共に「幕末三傑」の一人といわれ、天保九年西丸炎上に当たっては、庶民の困窮を理由に再建に只一人反対するなど剛直でも知られ、その度量の大きさや政治的手腕では並外れたた逸材とされている。

 矢部は持高三〇〇俵の軽輩であったが、文政六年御小姓組、同一一年先手鉄砲組、同年火付盗賊改加役、天保二年堺奉行、同四年大坂西町奉行、同七年勘定奉行、五〇〇石加増、同九年西丸留守居、同一一年小普請組支配、同一二年江戸南町奉行と異例の昇進をとげた。同年天保改革を進める老中水野忠邦・鳥居忠耀等と対立、罪をでっちあげられて罷免、桑名藩へ永預となり、同一三年絶食して憤死した。

 大塩の矢部批判の厳しさは、このような矢部像をもつ者にとっては、仲田氏ならずとも意外である。しかし、矢部に対する評価は、必ずしも肯定的なものばかりではなかったことも知っておく必要があろう。特に悪評で知られる鳥居との対比で見られたので、これに反比例して矢部の評判がよかったことも考えられる。

          江戸中のほしがる物を矢部にして
               鳥居どころか何の甲斐なき

矢部に代わって鳥居が町奉行に就任したときの落首(落首類聚一九)である。また矢部が勘定奉行であった天保七、八年頃の落首に、

   お救ひや飢饉の沙汰も矢部にして
                    価をやすく駿河手始め
                                 (『見聞偶筆』)
などは、鳥居との対比や大塩の影響もみられて、なかなかの好評であった。

天保九年三月、西丸火災にさいして、矢部に対する落首が数多く掲げられいる。

 「一歩モヌケメノネイ矢部様」というのは巷間の評価が知れて面白いが、五両金の鋳造を始め一体幕府の金銀改鋳は物価を吊り上げ庶民には不人気であった。勘定奉行としての矢部も当路の人物として、その批判を免れることは出来なかったのである。

 次ぎの落首はよくそれを示している。

 「三つのともえ」とは矢部の紋所で、「自分から地金を出して」というのは、改鋳貨幣の粗悪さと矢部の人格(欲深さ)とが掛けられている。いずれも矢部駿河の左遷を嘲笑して詠んだものである。このような落首による政治批判は、当時の民衆の政治的関心の高さと共に、その諷刺・告発・嘲弄・攻撃・批判などさまざまな事件について人々の受け止め方や世評を端的に表現した。ときに諧謔にあふれ、ときに「寸鉄人を刺す」鋭さをもった。 矢部を知る史料として、藤田東湖の『見聞偶筆』がある。これによれば、さまざまの矢部像をえがくことができるが、最もよく知られているのは矢部の大塩観であろう。曰く「たとえば悍馬のようなもの」だから取り扱いに注意せよと跡部に申し送ったとか、大塩は「反逆人てはない。いわゆる癇癪もちの極端なものである」「大塩が大坂城に籠城しなかったのは反逆人でない証拠」「憂憤のあまり〔かながしら〕という魚を頭からばりばりとかみ砕いた」「反逆人ではなく大不敬の罪状で判決すべきである」「大塩へ姦通の罪をかぶせるのは、公正な裁きとはいえない」などと語っているは好感がもてる。ただ問題なのは、「自分が元来三百俵の御番士からここまで立身したのは、才力のためではなく、みな賄賂を使ってやったことで、みんなが嘲笑していることだろう」と語っていることである。これに対し藤田東湖は、「賄賂を使って出身するのはもちろんほめた話ではないが、私利富貴逸楽のためでなく、国家のため主君のためであるなら、少しばかり道を曲げたとしても、その志はちがう」と肯定的に答えている。 しかし、賄賂を使って高位高官に昇進するという矢部の処世観は決して許容さるべきではなく、まして大塩の信念からすれば、唾棄すべきほどのものであるに違いない。

 ところで、「建議書」における大塩の矢部に対する告発の内容をみると、

 「建議書」十ヶ条の内、六ヶ条までは矢部駿河守に関するもので、大塩にとって矢部の比重はかなりのものであったことが分かる。大塩が矢部告発のために用意した史料は次のようなものである。史料番号は、仲田氏の『大塩平八郎建議書』の番号による。

 史料は、かなりの長文なのでここでの分析は省略し、次稿に譲ることとしたい。

 いずれにしても、大塩の矢部告発の内容は凄まじいばかりである。大塩の告発が事実とすれば、旧来の矢部駿河守に対する認識は、これを変脱せざるをえない。事実関係に関しては、大塩の見聞・体験に基づくものであり、且つ証拠の史料(永勤願い・堂島米市場一件・同役罪科一件には史料なし)などによっても疑いえないところである。先に矢部の処世観について触れたが、やはり基本はここにあるとしなければならない。すなわち、矢部は立身出世して世に経綸するという目的のためには、賄賂という手段も恥じるところ無く使ったのである。目的の実現のためには手段を選ばぬという矢部は、またどのような犯罪行為も正当化し、深みに嵌まることになる。矢部が水野と鳥居に追い落とされた次第は、また別の機会に検討したいが、矢部の策士としての側面を窺わせるところもある。

(四)

 最後に、大塩が「建議書」を提出した意図・目的について検討したい。大塩が送った荷物の中には、老中衆宛の建議書と添付史料と林大学頭関係書状類、今一つは、水戸家関係書状類がある。林大学頭への書状(二月十七日付)では、先年用立てた金子の証文は返進すること、詳しいことは老中方へ掛合っているから承知されたいとある。また大学頭の用人島村丈助宛の書状では、国家の儀について老中方へ申し上げることがあって、大学頭様へ差し上げるので別箱をその名前宛に至急届けられたい。大学頭様へ掛合った書状も箱の中に入っている。と書かれている。箱の表には、大久保加賀守様、脇坂中務大輔様、御用人中様 大塩平八郎 国家之儀ニ付申上候 とあり、荷物は先ず江戸八重洲岸にあった林邸に入り、そこから老中に届けられることになっいた。大学頭には箱中の書状は老中から渡される仕組みとなっていたのである。老中宛建議書の末尾には、「猶以別封林大学頭御渡可被下候、同人義累代聖賢之道を学候家柄ニ付、御諌言も被申上候身分と存、先年取結候言葉も有之候付、右之義懸合候義ニ御座候 以上」とあってこのことは明確である。大塩としては、林大学頭が建議書の内容について諌言を述べ、改革へつながることを期待していたのである。先年取り結んだ言葉がどのようなものであったかは不明であるが、大塩と林のあいだで、建議書に指摘されたような事柄について、密かに話し合いがもたれていたことを推測しうる。更に大塩は、水戸斉昭に対しても書状をおくり、建議書の内容が斉昭へも知れ、老中が握り潰すことができないような手を打っていた。書状は、用人宛となっており、「国家之儀ニ付、御老中方及懸合候儀有之候間、宰相様宜被仰上、御引寄一応御覧可被下様仕度、如此御座候、以上」とある。如何にも大塩らしい周到な仕掛けとなっていた。しかし如何にせん、一件書類は奇しき運命をたどった。一旦は江戸の飛脚問屋へ入ったが、大坂よりの呼び戻しにあい、大坂に向かう途中、韮山の江川太郎左衛門の手中に入る。老中の手に入ったのは、三月一六日か一七日のこと(仲田氏の説による)と思われる。これによって建議書が斉昭や大学頭に知られず、密かに老中の手によって処分される条件を作り出したということになる。

 ともかく大塩は、目論見通りことが進めば、不正無尽・内藤隼人正・久世伊勢守・矢部駿河守など幕閣内の罪科、醜状が露になり、幕府内で一定の改革・粛正が実現するのではないかという淡い期待をもっていたのではないか。しかし、たとえうまくことが進んだとしても、大塩が期待した改革・粛正が実現する可能性は極めてすくないといわねばならない。大塩の政治観では、「政の道は、実に其の害する者を去るに盡く」(『洗心洞箚記』上一六〇)という点にあったから、最も上位の者を去るということは、殆ど期待できないことだと大塩自身は恐らく自覚してもいたのであろう。まして、大坂で武装蜂起を行った謀反の首謀者の建言など取り入れられる筈もないと考えるのが常識である。 

 『大塩平八郎一件書留』によると、大塩は、「川中ニ漂い居一同行先之相談をもいたし候処、右躰不届之及所業候上は厳重之手当可有之は必定之儀ニ付、平八郎儀は存命可致所存無之、火中江入自滅いたし候覚悟之由申聞………一同東横堀新築地より上陸之上人目ニ不懸場所江寄集、猶立退方之儀相談いたし候処、平八郎自決決心之様子ニ付済之助・良左衛門頻ニ差留」(熊蔵事三平吟味書)などと、乱直後には自決の決心をしていた様子がみられる。このことは庄司義左衛門・橋本忠兵衛の吟味書にも出ているところであって、ほぼ間違いないと思われる。大塩が自決の日(三月二七日)まで、「建議書」にたいする幕府のリアクションを待っていたとする説もあるが、到底採ることはできない。強引に自決を留められた大塩が結果として幕府の反応をみることになったと理解しておくべきであろう。大塩決起の目的は、また建議書提出の目的でもある。「檄文」の思想については、先に触れるところがあった(『大塩研究』三〇号)ので今は略す。大塩にとって「其の義に当たりてや、その身の禍福生死を顧みずして果敢に之を行ひ、其の道に当たりてや、其の事の成敗利鈍を問はずして、公正に之を履む」(『洗心洞箚記』下八三)というのが真骨頂であった。彼の行為は、天下に警鐘を打ち鳴らし、幕府をして、周章狼狽せしめ、ついには天保改革を余儀なくさせ、人民の側には、生田万の乱・能勢一揆を始めとする巨大な一揆、打ちこわし、騒動の大波をつくりだしたのである。明治維新に至るまでわずかに三〇年、大塩の思想は生き、今日に至るまでその輝きを失なってはいないのである。

(一九九七年一月七日)

(本会副会長・大阪民衆史研究会会長)


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向江強「檄文の思想を探る


「大塩「建議書」幕政の腐敗醜状を告発」 その1

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