Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.11.15

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大塩の乱関係論文集目次


「― 歴史における個人 ― 
    大 塩 は 通 史 で ど う 描 か れ た か 〔四〕
その2

向江 強

大塩研究 第43号』2001.3より転載


◇禁転載◇

(二)

 これからは、少しく視点を変えて大塩の乱を追って見ることにしたい。

 思いもかけぬところで大塩の乱の記述にであった。思いもかけぬとは私の思いこみにすぎず、経済史の立場からは、当然であるともいえる。有斐閣選書『概説日本経済史』(一九七八年)がそれである。3幕藩制社会の崩壊、a幕藩制社会の変動、のところで論じられている。論者は作道洋太郎氏である。

 まず作道氏は天保期の意義について、「明治維新に先立つこと三○年前の天保期における政治・経済過程のなかに、維新による変革の原型が形成されていたという見解が通説化している。その意味において、天保期は明治維新の起点をなすものであり、日本における「近代化」の出発点であったということができる。」とし、天保期において、幕藩体制の構造的矛盾が激化し、危機的様相のふかまり、「内憂」と「外患」との交錯が、両者の関連解決を迫られた。維新変革の起点が天保期にもとめられるのも、それが国内的危機だけでなく、対外的危機をともなっていたことによるとされている。

 商品貨幣経済の進展は、畿内の先進地帯では、富農の地主手作り経営が労賃・原料費・肥料代の高騰により挫折して寄生地主制に転ずる傾向が現れ、生産者農民の経済的自給制を解体させた。天保期の物価上昇は、連年の凶作、貨幣改鋳、藩札の発行などにもよるが、大坂市場の地位低下、商品の需給関係のくずれによって、物価の高騰を招いた。大坂市場への商品廻着の減少は、価格の高騰をもたらしたが、これは全国的に地域的な分業が成立し、地方相互間の直接取引が盛んになり、各地の地方市場が拡大したために、従来の大坂市場中心の流通機構が変質し、新しい全国市場が形成されたと述べられている。また文政期に高揚をみた「国訴」は、国内市場の転換に対応して新しい展開をとげ、大坂の株仲間による独占機構の修正を要求し、これまでの改良主義的闘争から、幕府の流通統制を否定しょうとする反封建的性格をもつ闘争へと発展した。その結果、農民側が、生産費を上回り、一定の剰余価値を含む価格で、生産物を販売することを要求する運動を成功させたとされている。

 国訴とならんで、百姓一揆・打ちこわしなどの民衆闘争は、天保期には激化し、天保四年には五六件、同七年には六七件、同八年には四○件と集中しておこっている。このような情勢のなかで、「大塩の乱」が起こったとされ、「大坂の東町奉行の与力で、陽明学者として知られていた大塩平八郎(中斎)は、市民の窮状を無視した幕府当局の施政方針に反旗をひるがえし、『汚吏貪商』の誅伐を檄文に訴え、下級武士・農民・都市貧民のエネルギーを結集して、反封建的闘争を爆発させたのである。この乱の性格について、大塩は同盟軍を指揮する変革的イデオグローグであったとする見解と、大塩は忠実な幕吏であったとみて、その進歩性を否定する見解とにわかれるが、大塩の乱の影響を受けた騒動や一揆が各地で起こり、反封建ないし反幕府的な闘争が激化したのであった。」と述べられている。これは経済史家の指摘とはいえ、重要な指摘である。

 さらに論文は、生田万・能勢騒動のほか、播州加東郡の騒動についても触れており、注目される。これまでの通史では、大塩の門人堀井儀三郎の蜂起について述べたものはない。作道氏は「その一揆勢は徒党を組んで姫路藩内に乱入し、印南郡国包組の市場屋金川甚左衛門や神吉組の大庄屋神吉五郎大夫らの家を襲撃した。姫路藩家老の高須隼人定【日/政】は出兵し、これを鎮圧したので、この徒党は間もなく解散し、儀三郎は幕吏に捕えられて獄死した。儀三郎は一八一七(文化一四)年西村の富農の家に生まれ、一八二七(文政一○)年から加東郡福田村古川の医師井上謙斎の私塾として知られていた井上塾に学んだが、一八三四(天保五)年には大塩の門人となり、陽明学を学んだのであった。」と書いている。また乱後における民衆の大塩に対する讃仰、大坂周辺の農村での檄文のひそかな転写や手習いの手本化、芝居、講釈、あほだら経などで全国に喧伝され、「民衆の憤怒を代弁して、幕府権力に体あたりして玉砕した劇的なストーリーが語り伝えられた。このようにみてくると、大塩の乱は幕藩制の危機を最もよくあらわしている象徴的な事件であったことが理解されるであろう。」と述べている。



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「大塩は通史でどう描かれたか」
目次/〔四〕その1/その3

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