Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.11.19

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大塩の乱関係論文集目次


「― 歴史における個人 ― 
    大 塩 は 通 史 で ど う 描 か れ た か 〔四〕
その3

向江 強

大塩研究 第43号』2001.3より転載


◇禁転載◇

(三)

 明治維新との関わりでは、北島正元氏が『日本史概説V』(岩波全書、一九六八年)において叙述している。大塩の乱は、第三章明治維新、第一節危機の深化と天保改革、の中で位置付けられる。しかし北島氏は、「大塩は多くの著名な学者・文人と交際があり、とくに『国益』増進の前提として『先下民を安富せしむる事』(『宏益国産考』)を説いた農学者大蔵永常に共鳴していたといわれるが、かれの門人にも大坂周辺の高度に発展した商品生産地帯の富農層が少なくなかつた。したがって民富蓄積のためには収奪を緩和する仁政が必要であるというのが大塩の信念であり、その信念はヨーロッパの禁欲的プロテスタンティズムに比定された『太虚』の思想にささえられていた。」と述べて戸谷敏之・阿部真琴氏らの所説を踏襲している。大塩の太虚の思想がウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』における禁欲的プロテスタンティズムに比定しうるものかどうかについてはなお議論のあるところであろう。また大塩の門人に富農層が少なくなかつたというのも実証されるべきである。門真三番村の茨田郡士の例からすれば、富農経営というより、寄生地主制的な性格がより濃厚な経営がみられる。岡本良一氏が述べていたように、「ここでは商品作物を通じての富農経営の発展に対して、大きな障害が存在していたと言える。」(「大塩中斎について」『ヒストリア』5号)わけであって、門閥制、極端な低湿地帯、菜種作などの裏作の比重の低さなどの理由が指摘されている。いずれにしてもこの問題は、本格的に研究されなければならないであろう。北島氏は、「徳川家にたいする忠功の家系を誇る謹直な幕吏であつた大塩には、幕府を転覆する意図はもともとなかったようであるが、百姓一揆と区別される政治的反乱であるという印象は、それが幕臣であり元幕吏でもある人物によって計画され指導されたものだけにぬぐいえないものがあった。」としている。



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「大塩は通史でどう描かれたか」
目次/〔四〕その2/その4

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