Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.11.22

玄関へ

大塩の乱関係論文集目次


「― 歴史における個人 ― 
    大 塩 は 通 史 で ど う 描 か れ た か 〔四〕
その4

向江 強

大塩研究 第43号』2001.3より転載


◇禁転載◇

(四)

 明治維新史論争は、戦前の講座派と労農派の論争の主要な内容であつたが、講座派の論客羽仁五郎は、著名な論文「幕末における社会経済状態・階級関係および階級闘争」において大塩の乱について言及するところがあった。羽仁は同論文において、維新における変革の革命的原動力が、アジア的封建制下の末期に不撓不屈頻発せる農民大衆の暴動よりほかのものではありえなかったという見地から大塩の乱を取り上げている。「天保年間飢饉の継続を通じて封建的搾取下の民衆の窮迫いよいよ激甚、百姓一揆の未曾有の昂揚と同時に、都市の打毀闘争の波も上がった。天保七年大坂、米価高騰に際する米商の不正を機とし貧窮市民蹶起し暴動し、幕府は町奉行をしてこれを強圧せしめ、民衆の多数群集を禁ずるに至った。ようやくにして鬱積せる都市小市民の闘争は、貧農小作人小前百姓等の闘争また久しき封建的身分制度の抑圧下に惨苦せる穢多非人賤民階級の反抗の蓄積と相合して、ついにかの天保八年大塩平八郎内乱を勃発せしめた。大塩乱、その意義についてはすでに佐野学氏の詳論等によつて読者の知られるところであるが、ここに至って封建制下の被搾取被抑圧の民衆の階級闘争は、ようやく内乱へ、政治闘争への動向を公示したのであった。」とする。羽仁はまたその註記において幸田成友の『大塩平八郎』に依りつつ重要な指摘を行っていた。

「今日、大衆歴史小説家と称する一派の歴史的事実の歪曲のなかでかって直木三十五氏は大塩平八郎が軽薄の人物たりしことを主張し、したがってその乱の意義の浅薄を論じていた。その根拠としたところは、当時大塩党の変心裏切者吉見九郎右衛門の密訴(幸田氏前掲書付録三九ページ)における誣言を幕府の裁許書がそのままとりあげて、平八郎が養子格之助に娶すべき約束をもって養える橋本忠兵衛の娘みねと通じ一子弓太郎を挙ぐるの不倫を犯せり等と記したところが主である。これらに対してはかつて幸田成友氏が前掲書中であらかじめ、第一に、『幕府の裁許書に、既往に遡り罪状に関係なき個人の非行を載せたるは大なる失態であり、縦令之を事実としても、今回の暴挙には何等の関係なき事である。裁許書には今回の暴挙に対する罪状を数へれば宜しい、罪状に分厘の関係なき個人の行動を発くには当らぬ、況や平八郎不倫一件が甚だ覚束ない事実とすれば、之を掲げたは愈々以て正鵠を得て居らぬといはねばならぬ』と慨言せられている方が遙かに正しい。しかも、つづいて幸田氏の考証するごとく、相当の人物であった橋本忠兵衛、また格之助がいずれも最後まで身命を抛って忠実に大塩と苦戦をともにしたことからも傍証せられるように、『平八郎がみねに通じたということは、全然九郎右衛門の虚構』であるとされる。だが、支配階級が、その法官吏が、御用新聞が、御用文士等がこうしたデマで真相を蔽わんと苦慮することは当時にもいまにも共通当然のことだ。しかも、歴史的事実の真の意義はもっぱら大塩の乱がかの檄文『天より被下候村々小前のものに至迄へ』等にも示されているように、『小前百姓』『田畑所持不致もの、たとへ所持いたし候共父母妻子家内の養方難出来の難渋者』、都市貧窮民またもっとも苛烈の抑圧に苦しめる穢多賤民等の不満反抗闘争を反映していた点(参照、幸田氏前掲書、特に附録三三ページ以下の檄文、本文二一八ページ以下等)に存したことを、何人も見誤らないであろう。」(『羽仁五郎歴史論著作集』第三巻)と書いていた。この羽仁の論は、今日でもいまだ有効の論たるを失なわない。

 講座派の今一人の論客である服部之総が、羽仁の論文に対して「凡そ指導関係をぬきにしてブルジョア革命に於ける農民の役割を論ずることは、事実の上で結局農民一元論――農民の指導――を設定するという怖るべき結果に陥ってしまう。」と批判したことは有名である。しかし、服部は大塩の乱については、断片的にしか言及していない。服部は、「マニュファクチュア論争についての所感」(『服部之総著作集』第一巻)という戦後の講演のなかで、マニュファクチュア時代のブルジョアジーが、幕末維新の過程では、澎湃として立ち上がった農民・都市貧民にそっぽを向いていたとし、「貧農貧民に手を差しのべた革命家は幕末には大塩平八郎以外に一人もいなかった。その意味において大塩の乱をもつ天保時代が、歴史家、経済史家の意欲をそそる危機時代として、大きな意義をもつのです。」と述べていたのは印象的である。服部は大塩を「小ブルジョア的思想家であり、小ブルジョア的革命家だったと考えることができる」としていたし、「幕末における尊攘派ブルジョアジーと、反乱する農民とはおたがいにまだ無関係であり、相互の関係についての意識をもってさえいなかった。貧しい『小前』の農民と都市の窮民にひろく訴えて暴発させようとした企てが、たった一度大塩乱となってあらわれたが、この時には農民は立たない」(『近代日本のなりたち』青木文庫一九六一年)と述べていた。これは、前掲戸谷敏之・阿部真琴論文の「禁欲的プロテスタンティズム」に比定された「資本主義の精神」的なものの基盤としての富農層という考え方に似かよったところがある。ただ服部の場合論証ぬきに主張されているのが気がかりである。

 戦後の明治維新史研究をリードした遠山茂樹氏の『明治維新』(岩波全書一九五一年)は、大塩の乱をどう位置付けているのだろうか。遠山氏は大塩の乱を天保改革を促す直接のきっかけをなすものとして、この時期の百姓一揆の昂揚をとらえ、「中でも天下の臺所といわれた大坂に起こった大鹽平八郎の乱は、浪人的立場から、都市及び都市周辺農村の下層民の暴動を幕吏の横暴・腐敗に向けて組織しょうと試みた政治的意図と、この事件を機会に幕府の軍事力の無力を天下に暴露した政治的効果とをもって、政治史的に新しい段階を劃した事件であった。」としている。なお遠山氏はその註記に檄文を引用し、「都て中興神武帝御政道の通り」という言葉に王政復古思想を見、注目すべきだとしていた。

 今一人の歴史家井上清氏は、その著『日本現代史 T 明治維新』(東京大学出版会 一九五一年)において次のような見解を述べている。「一八三七年(天保八年)二月大坂で大塩平八郎が、米価暴騰と幕府役人の無能・腐敗に苦しむ無産市民の憤激を組織した有名な大塩乱がおこった。わずか一日で鎮定せられたとはいえ、右のような全国的動揺を背景にして日本の経済の中心たる大阪でおこり、しかも、民衆の動揺はついに封建警察の幹部たる与力であった人をさえも民衆のがわに立たしめるにいたったことからして、その影響は政治的にも社会的にも深刻を極めた。」といい、さらに「大塩乱は蜂起にさいし、大阪近在の農民に『天より下され候村々の小前の者どもにいたるまで』と積極的によびかけたことと、当時ほとんと人間外にいやしいとされていた摂津葱生村と大阪の渡辺村(今の西浜)の者が暴動に参加したことでも劃期的である(「大阪市史」)。前者は都市貧民と農民の反封建同盟を明確に意識的によびかけた最初のことであり、それはすぐ山田屋や生田をも同様の行動に出させている。このよびかけを可能ならしめたのは、すでに大阪近在の農民大衆が商業的農業を主とした綿業関係の手工業にしたがっており、(その生産品は地主・問屋等の支配下にある)半プロレタリアとなつているということである。また後者は、人間の平等の思想の明確な現われとしてとくに注目される。それはすべての人を『天より下され候』ものと見る檄文の人間観の実践であった。大塩は前からその人々の生活の心配をしていた(咬菜秘記)。」との見解を示す。井上説の特徴は大阪近在の農民が、綿業関係の手工業にしたがう半プロであったことが、大塩のよびかけを可能にしたとしていること、および大塩檄文の平等観を指摘していることである。

 『明治維新史研究講座』全六巻が平凡社から一九五八年に出ている。その第一巻に岡本良一氏が第二章幕藩体制の変質と階級闘争、第三節都市打ちこわし――大塩騒動を中心に── 、を執筆している。岡本氏はまず大塩騒動の影響、柏崎騒動について述べた後、″大塩騒動についての二つの評価″という項をおこしている。「このように大塩騒動が幕藩体制崩壊の一大弔鐘であり、この騒動に刺激されて戦列立て直しに躍起となった支配階級の努力にもかかわらず、この騒動が幕藩体制の崩壊に致命的な作用を及ぼす重大な契機になったという歴史的意義の評価の点では、従来ほとんど異論を生んでいない。それにもかかわらず、騒動の指導者たる大塩の思想、ないしは彼が期待した騒動の成果、または与力・同心以下、近在農民、大阪の中小市民、さらには人外とまで賤まれていた部落民等、彼の指導によって騒動に参加した種々の階層についての分析と評価の点では、重大な対立が認められるのである。その一つは、この騒動をもって下級武士・農民・都市貧民の反封建武力同盟であり、大塩はこの同盟を指導する変革的イデオロギーであったとする見解であり、他の一つは大塩はむしろ忠実な封建的臣僚であったとして、彼の進歩性を強く否定しょうとする見解である。」として問題を整理している。

 前者の変革的イデオロギーとする論者として、佐野学・羽仁五郎・井上清・堀江英一・服部之総などをあげているが、いずれも現代史ないしは維新史といつた包括的研究の中でわずかに概説的にふれたものに過ぎなかったとしていた。これに比して戸谷敏之・阿部真琴の研究は、真正面から大塩にとりくんだ重要なものとの認識を示し、結論として「大塩は革命の陣営にいた」として大塩の進歩性を高く評価したとし、この傾向が戦前戦後を通じての主流的傾向であったとしている。

 一方の進歩性を否定する見解の代表として前田一良・徳富蘇峰と自らの『大塩平八郎』をあげ、「大塩が最後の瞬間まで、終始徳川幕府権力の擁護に腐心した、忠実な吏僚であったことを克明に紹介するとともに、この限界性のゆえに必然的に、農民・市民・部落民からなる彼の同盟軍に潜在する偉大な反封建的エネルギーを効果的に組織することも、行使することもできず、そのためほとんど支配者側の不意をついた蹶起であり、散々の醜態を暴露した鎮圧軍を相手としながら、なおかつ無惨な敗北を喫せざるを得なかった」としていた。岡本氏はさらに、市中の貧窮市民の性格について、かってのルンペン・プロレタリアートとみなすべきとの説を修正した。すなわち、大塩騒動直後に家を焼かれた市民が、かえって「大塩様」「平八郎様」とかれをあがめたり、檄文が秘かに市民の間に転写されたり、または醜態を演じた鎮圧軍を嘲笑するざれ唄が流布したり、大塩の自殺後も、生存説が市民の噂にのせられたことなど、はっきりと反封建的な批判精神を展開したと述べ、彼等といえども指導の如何によっては、敢然と武力抗争にも立ち上がる可能性を十分に持っていたとしている。

 なお岡本氏は、今後の研究課題として、大塩個人の人物研究及び都市貧民の性格規定・都市騒擾の主体勢力の問題についての精細な個別研究が最緊急課題であろうとの提言を行っていた。



 Copyright by 向江 強 Tsuyoshi Mukae reserved


「大塩は通史でどう描かれたか」
目次/〔四〕その3/その5

大塩の乱関係論文集目次

玄関へ