Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.10.7修正
1999.9.30

玄関へ

大塩の乱関係論文集目次


「― 歴史における個人 ― 
    大 塩 は 通 史 で ど う 描 か れ た か 〔一〕」

向江 強

大塩研究 第40号』1999.3より転載


◇禁転載◇

(一)

 歴史上の人物をどう捉え、どう描くかという問題は、つねに歴史家にとって古く、且つ新しい問題である。

 マルクスは、「しかし人間的本質は個々の個人に内在する抽象物ではない。人間的な本質は、その現実性においては、社会的諸関係の総和(アンサンブル)である。」(「フォイエルバッハに関するテーゼ」)と言っている。個々の人間を社会的諸関係の総和、あるいは総体として捉えるという見地は、何人も首肯しうるものであろう。この場合社会的諸関係の総和というのは、社会的経済構成体・社会の生産諸関係・生産様式・国家及び政治支配の諸様式・階級・宗教・学問の諸体系等々としての社会的諸関係の総和という意味であることは自明である。同時にその個人がどのような階級、階層のどのような家系と教育的環境のなかで成長し人格を形成してきたか等などが含まれていよう。またそのなかで形作られてきた人間は、ある目標と意欲、熱情、欲望などをもって行動し、過去の思い出、希望、偏見と幻想、信念や原理などにもとらわれ、且つ自己が所属する集団の利害などにも規制されて歴史に参加してくるのである。

 あらゆる個人が、任意に望みの時代、選択された階級と家に生まれてくるわけにはいかず、ある与えられた時代と環境・条件の中で、しかもあらゆる過去の伝統と慣習に規制されながら、自分自身の歴史をつくり、且つ全体としての人間の歴史形成に参加するのである。従ってある人物を描こうとすれば、右のさまざまな諸条件を考慮にいれつつ、その時代と個人を、まさにその普遍・特殊・個別において描ききらなければならないであろう。

 またマルクスは「私生活では、ある人間が自分で自分のことをどう考え、どう言うかということと、その人間が実際にどういう人間で、なにをするかということとは区別されるが、歴史上の闘争ではなおさらのこと、諸党のことばや空想と、その実際の利害とを区別し、その観念とその現実とを区別しなければならない」(『ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日』国民文庫、五五頁)と指摘していた。これは、ある人物や集団を捉える場合の基本的な基準ともいうべもので、充分注意されてよい。

 さらにいえば、ヘーゲルが言うようにある史上の大人物や英雄が歴史上果たし行為に大きな意味があるのは、そしてその目的と使命が、平凡な単に与えられ秩序づけられた事物から抜き出されてきたのではなく、まだその内容がかくされており、現実のものにはなっていないが、必然的な将来・未来をもったものを洞察し得た時だけであろう。つまり、それは彼らが時代の要求と時代の赴くところを洞察しえた(「ものを見抜く人」)であった)からにほかならない。そして同時にこれらの英雄の全生涯は、悪銭苦闘であり、満身これ情熱であり、そしていずれも凋落する運命をもった。それは、アレクサンドロスのように夭折し、カエサルのように刺殺され、或いはナポレオンのようにセント・ヘレナへ流されるのである。悲劇的最後を遂げたという点では、わが大塩平八郎も世界史的個人と軌を一にするといわなければならない。

 しかし、人民大衆は歴史の主要な創造者であり、たたかう主体である。勿論、人民は、何等無人格的な集団でもなく、また等質の集団でもない。歴史の大きな転換点では、優れた能力と洞察力をもった傑出した指導者が人民のたたかいの先頭にたった。そしてこのことを理解せずしては、歴史をその特殊と個別そして普遍に於いて理解したことにはならないであろう。同時にこのことは、歴史がさまざまの偶然的諸条件と諸事件をつうじて進行し、これを作り出す諸個人の、さまざまな個性・才能・資質によってさまざまなバリエーションをうみだすのである。

 われわれの研究会は、江戸時代天保期の大塩の乱とその首魁大塩平八郎を主題とする研究会である。大塩の乱は、幕末における民衆闘争史の画期をなすといわれる。大塩研究が上述の論点を踏まえたうえで、進めなければならないとわたしは考えている。

 昨年末、拙著『民衆のたたかいと思想』にたいして、本会の会員である秦達之氏から書評を頂戴した。この書評は、ある事情から大阪民衆史研究会の機関誌『大阪民衆史研究』の三五号に掲載された。これに対するわたしの反批判は、同誌の三六号に掲載の予定である。泰氏に対する細かい批判的検討は、それによって欲しいが、ここでは基本的な歴史観、大塩観について述べることとした。あわせて通史・講座などでの大塩についての叙述をも批判的に検討する予定である。 

(二)

 今日まで大塩平八郎については、その伝記・小説・戯曲・人物論・大塩の乱など、さまざまに語られ、また歴史学の対象としても好個の研究対象とされてきた。しかもおよそ日本史の通史・講座なとで大塩の乱をとりあげなかったものはほとんどない。管見のかぎりでどように大塩は通史・講座などでとりあげられてきたかを検討してみたい。このことは、歴史学会における大塩問題についての通説的理解を知り得るとともに、国民の歴史認識や歴史観、また大塩観をううがううえでも重要なことであろう。

 先ず年代順に見ると、

@徳富蘇峰著『近世日本国民史 文政天保時代 』二七巻 一九二六年頃執筆、明治書院、一九三五年刊。これは蘇峰畢生の大著で、全一〇〇巻。大塩事件については、この巻の凡そ半分二四八頁を使って詳説しているもので、他の通史・講座に類を見ない。恐らく幸田成友の『大塩平八郎』、石崎東国『中斎大塩先生年譜』等とともに、後の大塩研究に多大の影響を与えたものと思われる。

 その叙述の方法の特徴は、史料を多く掲げている点にある。

 蘇峰は先ず大塩事件の意義を論じ、その動機に尊王討幕の意はなかったが、公然幕府にむかって一撃を加えたもので、幕府反抗運動の先駆けと見るのが適当であろうとした。また檄文からして、山縣大弐の思想に似通っているとの注目すべき指摘があり、更に梁川星巌の詠史を引用して、その真相を得たるにちかいともしていた(第五章【二四】)。

 次いで大塩の身柄・先祖・跡目相続等について述べ、その「寄一斎佐藤氏書」によってその思想の三変する所以を告白するものとした【二六】。続いて幼時より壮年に至る大塩を石崎東国の『中斎大塩先生年譜』・篠崎小竹詩・大塩の柴田勘兵衛宛書簡・「斎藤拙堂説話」・〔大塩中斎事蹟〕・幸田成友『大塩平八郎』等によって記述し、大塩の「苟も不正の事あれば、それは我事であると、他人の事であるとを問わず、中心より之を矯正せねば已まぬ一念」(【二六】)が養われたのはこの時期であるとしている。

 第六章では与力時代の大塩の功業について述べる。海賊三十余人の逮捕〔大塩後素記傳〕とその廉直、その贈遺を退けた例を「御池通四丁目年寄宛書簡」をあげて証している。また天満市中の富商某の身代限処分事件を坂本鉉之助『咬菜秘記』によって記述し、同じく同記によって大塩の気象にも触れ、「苟も自ら信ずる所あれば、身を挺して、勇往邁進し、之を徹底的に成し遂げずんば息まざる気象」と「政道を是非するは、大塩本来の面目であった」としている【二九】。更に『咬菜秘記』によって有名な未解放部落住民の解放への願望を利して城中防禦を如何に工夫するかについての、大塩坂本問答を紹介している。

 蘇峰は次いで東町奉行高井山城守実徳の下での大塩の三大功績を詳説する。この史料には、「辞職詩并序」、頼山陽の「送大塩子起適尾張序」、幸田成友『大塩平八郎』などが使用されているが、上述の史料とは評価の相反する古賀 庵「学迷雑録」によって、豊田貢処刑の残虐不道、弓削新右衛門処分の冷酷などを紹介しているが注目される【三一】〜【三三】。

 天保元年七月、大塩は三八歳にして与力職を辞した。蘇峰はこの間の事情について、山陽の「送大塩子起適尾張序」によって長官高井と進退を共にしなければならぬ理由があったに違いないと推測する。その引用するところ左の如くである。

 要するに大塩勇退の真の理由は、「彼の声望を嫉み、彼の勇往果為が、衆人の怨府となりたる為め」としている。これには一定の事実が反映していると思われる。大塩の「寄一斎佐藤氏書」に「以私讎充斥乎州内外」としている事に徴してもあきらかであろう。

 蘇峰の大塩論はいよいよ其の学問・教育に及ぶ。ここにおいて、頼山陽をして「君を号して当に小陽明とと呼ぶべし」(「訪大塩子起謝客而上衙、作此贈之」)と言わしめた名文句が引用される【三四】。

 第七章では大塩の講学が論ぜられ、「洗心洞学名学則」「洗心洞入学盟誓」によって「彼の師道の厳にして恵、其の恩威の両(ふたつ) ながら能く行はれたるを察す可し」という【三五】。ついで論は大塩の教育法に及び、彼が塾生に課す読書の要目を掲げる。更に密訴した門人吉見九郎右衛門の文を引いて、大塩の鞭 の実際が紹介される。また大塩の批判者古賀 庵「学迷雑録槁」の言によっても、其の厳峻とともに、弟子の内貧困の者在れば、自らの財を散じてこれを救済し、弟子の内富む者をして乏しき者を救恤せしめたという。またその弟子に対する態度は父子の如く、門生疾患するや、自ら指剤してこれを治めたという【三六】。

 大塩の学説については、『洗心洞箚記』により、その大虚の説を解説するが、さの欠点についても佐藤一斎の書簡を引用しつつ、批判している

 蘇峰は言う。「彼は天地と一体の積もりであるが、其実天地を、彼と一体ならしめんとしたる者であったらう。而して茲に所謂る『天満流の我儘学問』が、其の根を張り、其幹を長じたることとなったであろう」と【三七】。

 隠居後の大塩については、矢部駿河守による大塩のひととなりについての評言をとりあげる。これは藤田東湖「見聞偶筆」によっているが、いわゆる大塩の肝癪もちの気象を言ったもので、後に大塩蜂起の原因の一つに数えられた。そして天保四年の飢饉と穀値騰貴、播磨での百姓一揆に際しての所懐などが語られる【三八】。

 大塩と江戸出府については、大塩の上昇志向についての問題を含むと言う点で注目されるところである。天保五年正月、大塩は『儒門空虚聚語』二冊を上刻する。二月伊勢山田神廟書院講経の約に赴いた大塩は、足代氏に寓し、古本大学致知格物の本義を講ずる。三月、大塩は津藩平松楽斉の書簡に接する。それは江戸の岡本花亭が大塩に傾倒し、藤堂数馬(家老の一人)に託して大塩の出府を促すものであった。大塩はこれに対し四月七日平松に返事を与えた。それには、「不佞は箚記にも有之候通、最早採用抔願候念毛頭無之、然者尋も無之、建言すべき様も無之、只太虚講学之一路而巳に御座候。東武之士、不佞参り候様申越候人々も御座候へ共、爰十年計者、沈潜不参積に御座候。所詮要路之大官に無之候へ者、十分之存寄通出来不申すものに候。已前吏務中にコリコリ致居候。此上は草莽中に蟄し、空言を吐き、其中にも孝悌之道丈は興度決心に御座候。翁は万一逢候共、唯此話而巳と存候。四月七日」とある。蘇峰はこれについて、「彼の胸中に鬱積したる不平の気分は、固より此に存する」とし、大塩不平の根元をこのあたりに見ている。しかし、「要路之太官」云々から、大塩が上昇志向をもったとする見解があるが、これは大塩の前後の言葉あるいは、全体の文意を曲解した俗論というべきであろう。

 当時老中の主席大久保加賀守忠真が大塩を召してその政策を問わんとし、古賀 庵に大塩の対策を徴せしめたとある。大塩は『真知聖道実践』の一篇を草して、これを古賀 庵に呈した。時に天保五年十二月十二日とある。翌六年正月、江戸の武藤休右衛門賀年の別紙に大塩召命の風説を伝え、大塩は正月十五日付けで返書を送った。しかし、この『真知聖道実践』は、今日にいたるまでその存否があきらかでない。したがってその内容も知る由がない。  

 大塩は伯楽の一顧を待っていたが、空頼みにおわった。「幕府は決して眇たる一与力の隠居たる彼を、相手としなかった」とある【三九】。勿論この手紙も大塩の上昇志向なるものを証するものでないのはいうまでもない。

 第八章はいよいよ「大塩直接行動の因由」について論ずる。

 先ず蘇峰は、大塩がどのような動機で大坂の真ん中で兵を挙げたか、それには種々の経緯があったに違いないが、問題はそれが一時の突発であったか、また以前より仕組んだ陰謀であったかという。これについては今俄に断言できないが、大塩が天保元年辞職して以来、八年の爆発まで、周囲の事情によって圧迫を余儀なくされ、江戸よりの沙汰もなく、大塩にとって不利益の状況がせまってきたとの認識を示す。この間大塩は著述と旅行に雄心を遣る。すなわち天保六年『増補孝経彙註』三冊が成り、ついで『洗心洞箚記』および附録抄が天文堂間五郎兵衛蔵版として刊行し、さらにこの年『儒門空虚聚語』を世に公にし、五月には伊賀・伊勢に遊んだ。蘇峰は「是の秋又々美濃に百姓一揆が起った」と書くが、おそらく四月の幕領六一か村の打ちこわしのことであろう。大塩はこれに憤慨して「突然来為暴 斬人如斬麻 公然忍為賊 何人不嘆嗟 憶昔六十余州土 官吏如虎士似鼠 今夕是何夕 忽然鼠変虎 君不見三百年昌平恩 秋花秋月恐雄游歓」の詩を作った。蘇峰は大塩自身が虎に化しつつあったとする。

 天保七年三月、東町奉行大久保讃岐守の後任に跡部山城守良弼が就任。この更迭については一心寺事件が背景にあり、東組与力の殆ど全部が江戸へ召門され 、糾弾数月漸く落着した。その中には大塩の親戚・門人も少なくなく、大塩も文武の講習を遠慮していた【四〇】。

 この事件と前後して、大塩の門人、同心二人が何れも職務に際し、越権の咎を受け、正に拷問に附せられようとし、それを恥じて自殺した。これに関し大塩は、「小生素より退身いたし候已前、勤向等之義 勿論、隠居仕候事ども、万端上之気受不宜よし、古来賢哲何れも学問を以て陰禍を受け候例甚だ多し」(平松楽斉宛、五月廿九日付け)との感慨を漏らしている。 

 同年六月、古本大学刮目七巻を家塾に刻した。同書の序文には佐藤一斎・古賀庵これを拒絶し、斎藤拙堂これを約すも遂に刻本にこれを掲げることができなかった【四一】。

 蘇峰は、大塩が「清平の天地に、烽火を揚げ時ならぬ騒動を起こしたのは、何故である乎」と自問しつつ、彼には討幕の意志も野心もなく、只「全く何物かに激成せられて、この挙に出たのであったろう」と言う。而して「彼は過当の野心を懐かなかった代わりに、非常なる自尊心を持っていた。彼は恐らくは一方に於いては、時事を慷慨し、胸中悶悶たる気欝病に罹り、他方に於いては、増長我慢の天狗病に罹ったのであろう」などとの俗論を展開する。しかも大塩をして、茲に至らしめた一因として、大阪町奉行跡部山城守良弼の存在を指摘する。跡部は当時の老中水野忠邦の実弟で、剛腹の性質は兄に似ていたが、兄程の機略を欠き、大塩に対しては相談相手などにする意図はなく、かえって一与力の声望に歴代の奉行がはばかる風あるのを不快としたという。この間の事情を蘇峰は、藤田東湖の「見聞偶筆」などを引いて説明している。更に跡部の赴任は、前職大久保忠真の一心寺事件のための革織であったことをいって、跡部が大塩に対して猜疑の眼を注いだということを強調しているのが注目されるのである。

                   (つづく)


 Copyright by 向江 強 Tsuyoshi Mukae reserved


「大塩は通史でどう描かれたか 」
目次/〔二〕

近世日本国民史 文政天保時代

大塩の乱関係論文集目次

玄関へ