Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.10.7修正
2000.4.17

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大塩の乱関係論文集目次


「― 歴史における個人 ―
大 塩 は 通 史 で ど う 描 か れ た か〔二〕」

向江 強

大塩研究 第41号』2000.3 より転載


◇禁転載◇

(一)

 蘇峰は大塩が直接的行動に出た動機の一つに、天保七年の凶荒と、之に処する跡部らの措置を挙げる。天保七年は、二月から霖雨止まず、五六月頃は冷気甚だしく、七八月になって、暴風雨が頻りで、五穀実らず、天明以来の飢饉となった。このため甲州に郡内騒動がおこり、この年の八月、大塩は門人数人と共に、摂州甲山に登った。

 この詩の読みは、必ずしも蘇峰に従っていない。蘇峰は「その胸中の機心は、既に動き出しつつあったことは、言外に之を猜知するに難くない」としているが、私は、前稿で「中斎がこの年甲山に登ってこの詩を得たのは挙兵の心情にかかわるとの見方もあるがそうではあるまい。未だ中斎の胸中を占めていたのは、獨醒し、獨知を慎むという精神的工夫にあった」(「大塩中斎の漢詩を読む」『民衆のたたかいと思想』)と書いた。今日蘇峰の説には依然として従うつもりはない。

 さて矢部駿河守が勘定奉行に栄転したのはこの年の九月である。蘇峰は大塩と跡部は正面衝突の他はなかったとして、幕府の平山助次郎に対する裁決書によってこれを証しようとしている。これによると、当時跡部が、東組の風旧弊を改革し、組み替えなども行うとの風聞があり、大塩はこれを聞いて「弥心得違存迫」ったとしている。蘇峰は慎重にもこの裁決書が「固より事件後、幕吏の手に作りたるものとして、悉く信ず可きではないが。然も大塩を始め、東組の与力、同心等をして、疑惧の念に陥らしめたる事情は、之を見ても分明だ」という。かくして蘇峰は大塩の直接的行動の原因は、半ばは跡部の挑発、今一つの条件として、天保の飢饉を挙げている。勿論蘇峰はこれを主因ではないが、傍因たるや疑いない【四三】、としているのでこの点は否定すべくもないであろう。

 次に蘇峰は、大塩の決起の準備とその時期について論じている。蘇峰は、天保七年九月の丁打ちを、挙兵の決意でないとしても、その準備にとりかかったものとしている。庄司義左衛門の供述によると、九月から格之助が砲術の稽古をはじめたのは、来春に泉州堺の七堂浜で「丁打ち」をさせる積もりで、そのため棒火矢細工、火薬の手伝いをして呉れるよう平八郎が云うので、承知した。さらに平八郎は、諸国異作により東国西国で百姓騒動の動きもあり,上方でも油断できず、そのための備え立ての心組みが必要で,大筒火薬などの用意と先備・中備・後備の三段に門弟を分かつ「列書」などを見せたという。また白井孝右衛門の口述では、平八郎の話によると、諸国異作で米価が高騰諸民が難渋し、甲州では百姓一揆などもあり、当表でも何時異変が起こるやも知れず、その為自分も一己の存念で忠節を尽くすつもりである。右の手当のため、格之助に来春丁打ちをさせる予定であり、私方から送った松の木で大筒を作らせたと云い、それを見せられたという。

 これによって九月ごろからの洗心洞は、砲術の傳習と火薬の製造のために、平八郎と格之助の居室を宛、外人の出入りを禁じて専心これに当たらしめたというから緊張にあふれていた。このとき大塩は、高槻藩門人柘植半兵衛に同人所持の百目筒を懇望し、刀一腰、唐画一幅をもって之に代えている。

 蘇峰はこうした大塩の言動を、「彼の言葉通り、上方に暴動の起る際に、之を鎮定する為めと見る者あらば、そは余りに無邪気過ぎたる判断であろう。」といってこの時期に彼の挙兵の決意が固まり、その準備を進めたものと断じている【四四】。

 しかし、果たして大塩が九月段階で挙兵の決意をし、準備を進めたかどうかは、俄には断定できない。「檄文」の彫刻を頼まれた来た北久太郎町の次郎兵衛の供述では、依頼があったのは七年の十二月である。白井孝右衛門も同意を勧められたのは十二月で連判状への署名は翌年の正月とあるので、大塩の決意の時期は檄文の草稿の出来た段階とみる必要があろう。吉見九郎右衛門の供述では、平八郎に檄文の草稿をみせられ同意を求められたのは、十月とあるので、多分にこの頃とみてよい。ただ大塩をして決意を現実のものにしたのが、丁打ちにかこつけた大筒火薬の準備であったことは否めない。

 蘇峰は大塩挙兵の動機と目的【四五】という一節を挙げてこれを論じている。即ち「要するに一片不平の気が、彼を駆りて此に至らしめたもの」という。そして、「彼は決して幕府の制度を打破せんとする者ではなかった。彼は本来尊皇討幕論者ではなかった。彼は只だ大阪の町奉行と、大阪の富豪とに向て、満腹の憤慨を懐き、彼等に向てそれを漏らさんと試みた」という。また大塩には「屹度したる経綸」などは無かったとも断じている。

 さらに藤田東湖の『見聞偶筆』から矢部駿河守の「平八郎叛逆人といえども、駿河守が案には叛逆とは不存候。平八郎は所謂肝癪の甚だしき者なり」との言葉を引用しつつ、単に大塩が怒りにまかせての暴挙であるか、或いは「真醇なる憂国済民の至情より発したるものであった乎」については、多少の分析を要するとする。しかして、「兎にも角にも彼は奉行を討取、市中を焼払、富豪の金銀を窮民に分配する丈の目論見は、正しく為したに相違あるまい」とし、「要するに大塩は、義憤禁じ難く、一身の利害得喪を度外視し、生命を賭して、其の所信に向て、驀地暗に駆け出したるもの」であり、「何れにしても天下取りの野心でも無く、理想的の革命運動でもなく、唯天に代りて、汚吏と濁富豪とを処分して、窮民を濟ふと云うに外ならなかったものであろう」と結論している。而して一層大塩を嗔らしたのは、大坂町奉行所による米の他所積出制限令と江戸迴米一件であるという。  蘇峰は〔平戸藩士聞書〕を引用して、この問題についての大塩の解決策を述べる。「大坂の米相場を、特別に引き上げ、諸国より米及び雑穀を、大阪に回送せしめ、其上にて、相場を引き下げしむ可しとの策は、当時に於て、或いは応急の手段であったかも知れない」と云ってこれがまた一策であったことを認めている【四六】。

 しかし、大塩の富豪勧説、さらに金子立て替え勧説などが奉行所の入れる所とならず、かえって「強而被申候はゞ、曲事たるべく、強訴之罪に処すべし抔と、荒々敷被仰渡候由、大塩氏此儀を承はり、言語同断、存外之仕合、此様之時節には、上よりも専ら仁政を施可申筈之処、実に苛政とや可申。然る上は眼前に恥辱を受け、末代に汚名を流さんよりは、諸民の為め、潔く一命を捨て、我が存分に事を発し、我が計ひ事を行ふべし、云々。事急に迫る、時に正月八日也」(〔平戸藩士聞書〕)と、いよいよ挙兵の実行を迫られるに至ったのである(此の平戸藩士は、葉山左内と云う説があることを紹介している)【四七】。

 蘇峰の以上の説は、『大塩平八郎建議書』の知られていない時期における通史の記述としては、最も詳しくまた当を得たものであろう。只、幕府改革の意志も計画もなかったと断じている点及び易姓革命の思想的検討にいたっていないのは、或いはやむを得ないかもしれない。

 この後、蘇峰は、平山・吉見の裏切り、挙兵直前の宇津木矩之允の悲劇などについて詳説したのち、挙兵した大塩勢の運動と官辺の行動、両勢の衝突と大塩勢の敗北、美吉屋五郎兵衛宅での大塩父子の最後について述べる。そして最後に大塩事件に対する世評の章を立てて、大塩に対する宣告文と檄文の検討、事件の影響などについて論じている。

 蘇峰の所説は、今日の大塩評価にもかかわっているので、コメントしておきたい。

 大塩の「宣告文程、愚劣なるものは、其類少ないであろう。之を一読すれば、当時幕府に人無きことが分明だ」とまで蘇峰は憤慨する。それは非難というよりは怒りである。そして「大塩の味方でなき者、少なくとも大塩の蜂起を不是としたるものさへも、此れには異存を懐いたものが少なくない。乃ち其の中には、矢部定謙やら、坂本鉉之助の如きがある」という。勿論これは、大塩と格之助の嫁みねとの姦通云々に関連してのことである。このことを「何人も彼の為に弁護する者なきを奇貨とし、風説や、若しくはためにすることありと思わるる書付(裏切者吉見九郎右衛門)に拠りて、軽々に之を宣告文に明記する如きは実に言語同断」とする。

 また檄文の全文をあげてこれを解説しているのは、他の通史にない。即ち蘇峰は、『民を吊ひ君を誅す』ところに大塩の目的を正しく看破していた。

 さらに蘇峰は、大坂町総年寄今井克復の所説を検討している。これは筆者と秦達之氏との論争にもかかわるので、紹介しておく値打ちがある。

 蘇峰は今井の説をつぎの様に要約している。「大塩は『江戸に出て、一廉の役人に取用ゐられたいと云うことを懇願した』彼の長官東町奉行高井山城守も、其意を諒としたが。高井は其の職を去らんとするに臨み、大塩に向て、〃江戸に出る心あらば、与力は一旦退かずば、与力のままにては昇進は出来かぬれば、せめては江戸にて御家人の株に入り、身分を替たる上でなければならぬ。〃と諭した。即ち此れが大塩の隠居したる理由だ。然るに大塩の頼みとしたる高井は、西丸留守居の閑職に貶せられて、とても彼の望を達す可き手段もなかった。大塩は再度迄も江戸に赴いたが、高井は最初に、とても出来ぬと申し切り、再度の出府には、其の面会さへ謝絶した。此に於て大塩は勢い高井を怨まざるを得なかった。此れが即ちかれが騒動を起したる、第一の動機である(〔史談会速記録〕)」と。

 さらに今井の説として、〃高井の説で隠居した大塩は、何分江戸表で出世したいというのが一心で、高井が私が転役すれば、引く(退職)が宜かろうと云うことを注意したもの故、引いて隠居したのである〃(〔同上〕)と断言してゐる。」という。しかし、これでは大塩自己の説と矛盾し、主客転倒していると云う。大塩は高井と其の進退をともにする決心で辞職したものであり、さらに一歩を進めて 高井の転任説の出る已前、豊田貢等一件審理の際に、すでに京都の与力にも其の事を告げていたというのである。そして、それについて、大塩の荻野四郎助に宛てた書簡の一部を引用する。「先ず宿願之通、三年已前(天保元年)御暇乞退身仕候。山城殿(高井)参府に付、思付候事には無之、邪宗門吟味之節、京都同列之者ども、兼ねて談候事有之義は難取失、士之一言泰山磐石よりも重く、前以御暇内願罷在候義も、及御聞候通りにて、首尾よく退身仕候」

 したがって、今井の説が成り立たないことをこの手紙によって証明しているのである。

 蘇峰はこのほか「又た一説あり」の節をたて、古賀恫庵の『学迷雑録沓』中の説をとりりあげる。即ち大阪城に闕所金があり、大塩の徒党が窮民を賑わすの名に託して私したという。これについては、「死人に口なし。大塩には凡有(あらゆ)る悪名を負はしむるを以て当代に迎合したる徒輩少なくなかった。乃ち上記の如きも、其の標本の一だ」として一蹴している。しかし、この最後の節において、これまで検討してきた問題をすべて放擲して、大塩挙兵の真因を彼の肝癪の爆発、しかも彼の過度の神経質にもとめたのは、蘇峰にしては惜しむべき憶断で、全く科学的な態度とはいえない。しかし、蘇峰の『近世日本国民史 文政天保時代』のはたした役割は大きく、また今日的意義を失っていない。やはり蘇峰が厳密に史料によって大塩を叙述しょうとしたところに、その功積の一端があろう。

(二)

 次に三上参次著『江戸時代史』を取り上げて見たい。此れは江戸時代を概観した通史で、一九四三年(昭和十八)東京冨山房刊。著者が東京帝国大学での講義筆録をもとに、昭和十四年死後、遺族が辻善之助・中村孝也とはかって校訂整理したものを、出版したもの。

 大塩のことは、第二十章 天保時代 第二・三節に説かれている。第一節には、天保初年における社会情態の大要が述べられ、特に天保の飢饉が特筆されている。従ってこの節は、大塩の乱が惹起した背景としての社会情勢が捉えられている。

 (二)が「大塩平八郎乱の真相」である。三上は先ず、「塩賊騒乱記」「塩賊大坂一件」「塩逆述」などを、人びとの聞書および手簡等の根本史料を集めた詳細にして完備したものとして挙げ、大塩の乱の真相を知るには、四つの観察点が必要とする。

  第一 時勢

 時勢は世の中の人気がきわめて悪しくなり,中以下のものには、乱を好むと云うほどでないにせよ、風が吹いて悪気を払うというのを望むというものもあり、政治的には水野出羽守時代の弊習がまだ盛んで、賄賂が公行した時期であったとする。

  第二 大塩の人物

 大塩の人物については要するに豪邁不屈、生来自信強く厳酷に過ぎ、時として執拗にして慓悍な挙動をすることがあったというに尽きるという。而して大塩は陽明学の大家であり、その学風は知行合一、躬行実践を主義とし、徳川幕府の制度と相容れないところがあつたとしている。

  第三 大塩の境遇

 先祖は今川の一族と云うが、元来与力の賎位置であって、当時の社会制度について大いに不平であって、小吏に甘んずることができず居常欝々としていたとする。而して飢饉は、大塩をして過激な行動を取らせた直接の原因であったとしている。次いで三上は大塩の三大功績を紹介、「大塩の名声は四方に轟き、ことに下に向いては奉行同様の威光ありき(与力は今の警部の少しく上等の地位なり)。ことに貧民救助には早くより尽力せしをもって、この社会の人望ことに大なりき。また公家衆の中にも評判よく、その最後をききてこれを惜しみたる人もありしという。」と賛辞を呈していた。ついで奉行の交替を述べるが、大塩が西町奉行に属したとか、東町奉行に矢部駿河守・堀伊賀守、西町奉行が跡部山城守であったとするなど東西を逆に記するなど、瑕瑾をのこしているのは惜しまれる。大塩引退後の政治状況は、水野出羽守一派の弊政が上下に瀰漫し、不愉快なことが多く、ことに飢饉に際しての救助が不十分で奉行の処置が当を得ず、大坂の富豪は無慈悲で自己の榮華に耽り、貧民の窮状を顧みず、天保七年にはその惨状は実に甚だしかったとする。大塩はこれを坐視するに忍びず、養子(格之助)をして跡部山城守に救助のことを説かせたが、跡部は毫もこれを聞かなかった。大塩は跡部が聞き入れないので、富豪に謀って救助しょうとしたが、跡部は大塩を嘲って発狂者であるといった。大塩はこれを聞いて憤懣し、ついに己の蔵書を売って窮民一万人を救い、格之助はこのため譴責された。ここに至って大塩は堪える事ができず、ついに暴動を企て、日を期して発せんとしたが、密告するものが出て、暴動を速めた。大塩の乱を天保四年の播州の暴動、天保七年甲州郡内の暴動と比べると、大塩の乱は分量は大きくはなかったが、「その大坂なる枢要の地に起こりしと、一万八千余の人家を焼きしと、主動者の人物の前述の如きとにより、天下の耳目を聳動せしめしなり。」としている。

  第四 結論 学問

 この項については三上の論述は十分ではない。ただ大塩の檄文にその挙兵の原因が尽くされている、としながらも格別裏面の意味、あるいは勤皇討幕の先駆であろうとしたとは考えられないとしている。そして大塩が「社会制度に不満なりしをもって、平常の気質と学才とが、ついに彼をしてこの挙に出でめしなり。」と結論している。また大塩が火中に自殺したのは事実であるのに「死せしは影武者なり」として加賀・奥州に逃れたとの風評や江戸西の丸の焼失も大塩与党の仕業、はなはだしきは海外に遁れたとの噂を記している。

 第三節は、大塩乱後の情況記述に宛ている。(一)には『浮世の有様』から大坂の人心の動揺と市中の物騒、大塩演劇の流行などをとりあげている。(二)では越後柏崎の暴動──生田道満(万)を取り上げ、(三)では摂津能勢郡農民の蜂起をとりあげている。とくに能勢一揆については、史料(「応思穀恩編付録」)をあげて詳論している点が注目される。

 三上は大塩の乱の記述の最後に次のように述べて結論しているのはなお、今日的意義を失わない。「翌九年八月には佐渡にも一揆起こり、十二月には肥前松浦の民も蜂起せり。以上述べ来りし事柄を概括していえば、幕府の腐敗して世の中の活動の機運絶え、加うるに天災しきりに臻りて百姓窮困の極に達し、幕府の政治また紊れてこれに対する救済策宜しきを失い、ついに窮民・乱民およびやや気概ある人々これを坐視するに忍びずして乱を起こし、ことに大塩は陽明学の大家、生田は国学者にして、生田の檄文には天子の事を載せたり。ゆえにこれ等の事を研究するは面白き事にて、ことに大塩の乱のみにても研究の価値多大なり。されど幕府は衰えたりといえども、惰力によりて今しばらくはその運命を支うる実力を有し、なお外国の勢力のごとき大なる圧迫の来らざる限りは、大塩の乱のごときはその存立に影響を与えざるも、なお一方より見れば、大塩らの挙動には改革の暁鐘を撞きしとの名誉を与うるも可なるべし。」としていた。けだし卓見であろう。

 三上参次は、一八六五年生まれ。東京帝国大学文学科卒業。同大学教授・史料編纂掛主任。文学博士。宮内省臨時帝室編集官長などをつとめた国史学の重鎮であった。引用は『講談社学術文庫』によった。

(三)

 一九五九(昭和三四)年、読売新聞社から『日本の歴史』全十二巻が刊行された。その後、日本の歴史書ブームのさきがけとして大きな役割を果たした通史である。大塩の乱については、第九巻「ゆらぐ封建制」の〔八、封建制のゆきづまり〕の冒頭で記述されている。ここではまず「平八郎の挙兵」について述べられる。大塩については、「救民」の旗をかかげて兵をあげたといい、「みだりに政道を是非する癖」があったという。しかし、大塩には反幕府ないし反封建的思想はなかったとし、かえって幕府への熱烈な忠誠を誓っていた幕吏であるとする。そして、この忠誠な幕吏がなぜ「反乱」をおこしたのかと問う。

 平八郎は、かねて自分の屋敷内に洗心洞と名付けた学塾をひらき、学者・教育者として学問に専念し、『洗心洞箚記』などの著作を完成させた。しかし天保初年このかた、災害がつぎつぎと起こり、そのため困窮していく社会の惨状を目の前にして、ただ市井の一儒者として傍観することができなくなったとする。平八郎はもともとその役目柄民情には通じていた。そこには過酷な年貢と加えて商品流通の発展によって、その取引を支配する商人や高利貸に圧迫され、窮乏に落ち込む農民のあわれな現実があり、これら農民の破滅は結局幕藩体制の致命傷になることを平八郎は知っており、そうなることを心から恐れていた。したがって平八郎は年貢を適正にし、商人・高利貸の活動を憎むと言う意味で、農民に深い同情と親近感をいだく撫民思想の持ち主であったとする。だから、洗心洞の門弟が与力・同心・近隣諸藩の武士・大坂近郊の農民それも村役人を含む富農たちが加わったのも不思議ではなかったとする。平八郎はこうした思想から、商人を殆ど遊民と同じと見、悪徳商人を排撃し、悪徳商人を含む都市の市民一般を不信の目でみていたとする。ここの大塩の商人観については後に異論と議論を生じさせることになるのであるが……。 

 平八郎の学問は、「君子たるものが、もし善と知りながら、しかもそれを実践しないとしたら、そのときかぎり、もはや小人である」と教えている。彼はなんども危機打開策を跡部に進言するが入れられず、窮民を救済しようとする平八郎には、もはや最後の非常手段しか残されなかった。かれは一身を犠牲にして、不正役人と悪徳商人に一大痛棒を加え、眼前の窮民を救うとともに、警世のさきがけとなって、くずれかかった幕藩体制の屋台骨を立て直そうと、決意したとある。彼の理想は堯舜時代であり、現実には神君家康の治世にかえることを目指したとしている。

 このあと挙兵に付いて簡単に触れられ、騒動の影響が述べられる。  

 民衆は東西両奉行が砲声におどろいて、そろって落馬した醜態をあざ笑ったという。そして民衆は、一身を犠牲にして幕府権力に体当たりして玉砕した平八郎をたちまち彼らの英雄にまつりあげた。騒動のために家を焼かれた市民さえ、平八郎を「大塩様」「平八郎様」と敬ったというし、檄文はきびしい禁圧のなかで、つぎつぎ写し取られて、大坂近在では、ひそかに習字の手本にされたともしている。「騒動のうわさはたちまち全国にひろまり、さらに芝居や講釈などにも仕組まれて、この事件を知るかぎりのひろい民衆に、心からの共感をよび起させた。大塩騒動は、しいたげられた民衆の反封建的な闘争意識を大きくふるい立たせた。」と書かれていた。

 著者はこのあと、乱の直接的な影響のもとでの事件として、生田万の乱について略述して終わっている。

 この章の執筆者は明記されていないが、おそらくは既に故人となられた岡本良一氏であろう。同氏の名著『大塩平八郎』(一九五六年)の叙述に似通うところがある。とにかく読売新聞社の『日本の歴史』は、私には強烈な刺激となったことは間違いない。私が生涯、民衆のたたかいを学びたいと決意するに至ったのはこのシリーズの影響が大きい。また私の大塩の乱についての知識はこれによって与えられたといってもよいから、問題点を残したとしても、この書の意義は大きかったというべきであろう。

(四)

 通史ではないが、このあと岩波講座「『日本歴史13』近世5」が1964年に発刊された。この巻では、岡本良一氏が「天保改革」のなかで大塩の乱をとりあげている。岡本氏は、この中で、大塩を幕府に忠良な名与力とよばれたほどの有能な幕吏であつたとした。大飢饉で、餓死者が続出する大坂の惨状を見ながらなんら手を打てない町奉行が、逆に特権商人と結託して私利私欲だけを追求しているように見えた。大塩はこの町奉行に天誅を加え、あわせて特権商人をこらし、彼らの金穀を散ずることによって貧民を救済しようとした。大塩はすぐれて実践的な陽明学者としても当代になを知られており、近郊農民にたいしては、その師友として深い交わりをもっていた。彼がついに一身を犠牲にしてまでも実現しようとしたのは、飢饉のような天災によってではなく、町奉行によって代表される不正官僚によっておこなわれている人災、即ち悪政の徹底的廃棄であった。したがつて不正官僚の打倒更迭がその当面のしかも究極の目標であって、そのことによって直ちに「神君」家康時代のよき時代の再現が可能であったと考えた。だから大塩は幕藩体制の否定者ではなく、むしろその擁護のために身をていしたとする。「しかし現実は果たして彼が考えるような封建支配者的な仁政によって、すべての社会的矛盾が解消されるような単純なものであったのであろうか。」と疑問を投げかけていたのである。

 岡本氏のこの主張は、長い間大塩の乱に対する定説的役割をはたしてきた。この所説にたいする公然たる反論は、中瀬寿一氏の『住友財閥形成史研究』「第T編大塩事件と住友・鴻池・三井の衝撃」(一九八四年、大月書店)までまたなければならなかったのである。

 これも通史ではないが、『日本経済史大系下』(一九六五年、東京大学出版会)に津田秀夫「天保改革の経済史的意義」が掲載され、大塩事件についてもつぎの様に論られていたのが重要である。「天保期に入って増加した農民闘争のピークに大塩の乱による都市貧民の反乱がみられたのは、脱農民による都市貧民層の増大と関係があると思われる。ここでは、大塩の乱の内容に立ち入ってまで、これを検討するつもりはない。しかし、とくに問題にしておきたいのは、大塩の乱が明らかに幕府に叛く兵乱であり、同時性だけでなく、関連性をもってただちに各地の農村や都市に波及していく点である。このような傾向は、幕藩領主層にとって、けっして好ましくないはずである。領主層は、農民層の分化あるいは分解の所産として生まれた脱農民の「流民」化を恐れていた。それに何かの契機があれば、農民一揆や打ちこわしが、兵乱にまで進展する危険を感じていたといってよい。たとえば、水戸藩主が大塩の乱と関連して、甲州の百姓一揆や佐渡国一揆、江州湖辺一揆などを兵乱として恐れている事実を見逃すことはできない(『水戸藩史料別記』上巻、八七−八頁)。領主層にとっては、孤立分散的な都市の打ちこわしや農民闘争が相互に連繋をつけ、さらに反体制派の結果として兵乱にまで展開することを怖れざるをえない。天保改革の前夜の社会情勢をみると、明和─天明期にはじまる本格的危機は、この段階にいたって、いっそう深化し、兵乱となる可能が充分存在し、階級矛盾の激化は領主側に革命情勢を呈するもののごとき恐怖を与えた。」

 ここに至ってようやく、大塩の乱の客觀的な、歴史的意義が論題にのぼってきたのである。ただしここでは、大塩の乱の主体が都市貧民の反乱としてとらえられていたのは、問題をのこすことになった。

     (一九九九・七・二三)


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徳富蘇峰『近世日本国民史 文政天保時代』目次
三上参次『江戸時代史


「大塩は通史でどう描かれたか 」
目次/〔一〕/〔三〕その1

大塩の乱関係論文集目次

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