Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.5.22修正
2000.5.2

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大塩の乱関係論文集目次


「檄 文 の 思 想 を 探 る

―天人相関説・革命論・箚記・建議書―」

その2

向江 強

大塩研究 第30号』1991.12 より転載


◇禁転載◇

    

(二)

 先づ天人相関説であるが、最初に体系的に論じたのは前漢の董仲舒(前一七六−前一○四)の『春秋繁露』である。 とされている。人体の各部分と字宙の構成の一つ一つに対応関係をみる見地は、宇宙を大宇宙と称し人間を小宇宙とよんでいる。この見地から、小宇宙たる人間の本性の理解を通じて大宇宙の本性を理解すると共に、大宇宙を通じて小宇宙を理解しようとする考え方が生じた。この様な考え方は、洋の東西を問はず発生しており、占星術の哲学的論拠となると共に、近代的な自然対人間の思惟形成の原初形態ともなって登場したものである。

 この天人相関説は、論埋的必然として災異説として展開された。菫仲舒の場合天人相関説と災異説は、陰陽およぴ五行説と結合して述べられている。災異というのは、日蝕・彗星・暴風・洪水・早魃などの自然界の異変現象 をさしているが、その小なるものを災といい大なるものを異と称した。もし王者に悪政があれば、天は先づ災を降してこれを譴告し、なお改めないときは、天は異を降してこれを威嚇して畏れしむるというものであった。従ってその目的は、儒教教学中の王者の徳化、君主の道徳的実践にあった。菫仲舒はその「賢良対策」に

 これは一見君主の政治的責任を天によって咎めようとするものであるから、君主の専制的性格を抑制するものであるようにみえる。

 しかし、これは逆に君主の統治行為が、陰陽ニ気を調和する働きを有し、それによって自然現象を統御できることを意味していた。従って、菫伸舒の説は、中国の中央集権的専制主義国家のイデオロギーとして機能しえたのである。西欧の占星術師は、「地上の無秩序が天界を混乱させることがある」など「大それたことは夢にも思いつかなかった」*7のである。

 天人相関説・災異説はまた、『漢書』五行志の中に全面的に展開されている。「五行志」の序には、『書経』の洪範九疇・『易経』繋辞上伝をあげて、天人相関。災異説の理論的根拠としており、菫仲舒の説と共に、劉向(りゅうきょう)(前七九−前八)・劉【音欠】(りゅうきん)(前三二−二三)の説をも付載している。したがってこの説は、漢代は勿論後世に対して も、讖緯説などと連なって大きな影響力をもった。勿論こうした神秘主義的思想に反対する合理主義思想も存在し、王充(二七−一○○)の『論衡」などはその代表的な著作である。

 大塩の檄文を正面から批判したものに『大塩実録』*8 中に採録されている「二津浦大嘲問答」がある。この文中では、近年の天変飢饉は関東の不正の故としているが、天変飢饉は皆下から起るもので、古聖人湯王の時代にも存在したし、是はみな天道自然の道理であると反論している。又火災についても、近年のものは盗賊の致す所であって天より下し給うたものではなく妄説にすぎぬと一蹴している。

 天災地変などが天道自然の道理であるとする合理主義的批判は正当であるが、「問答」における批判は、体制擁護の観点で貫かれている。したがって大塩が自己の行為の正当性を主張する論理として展開した災異説の真意を見抜けるはずもなかった。田沼期以降の権力の腐敗と財政悪化、災害の頻発は、杉田玄自をして天災は「人災」「政災」と云わしめた。宝暦・天明の百姓一揆と都市打ちこわしの昴揚は、民衆による鋭い政治批判を象徴していた。寛政改革を経て家斉の大御所政治、その下での水野忠成の賄賂政治の復活、農村の荒廃、国訴と世直し一揆の続発など危機的様相は次第に深まっていった。

 『大塩建議書』にみられる大塩の政治批判は、檄文に示されている幕府批判から一歩を進め、幕閣中枢部とその周辺の腐敗を真正面から批判している。しかも具体的な資料をそえてのものであった。『建議書』については後述するが、忠成の後を襲った老中水野忠邦も批判の対象となっており、その実弟たる大坂町奉行跡部山城守や西組与力内山彦次郎らの奸吏振りは大塩にとって許し難いものとなった。大塩にとって、災異説は、次の政治行動、革命説へと発展すべき必然性をもっていた。大塩の『洗心洞箚記』を検討することでこの変化がたどれるのであるが、ここでは先づ、儒教教学中の政治思想の一つである革命論について見ておきたい。


【註】
*7 ポール・クーデール『占星術』文庫クセジュ、一二七頁。
*8 『大塩実録』(天埋図書館蔵)

(三)

 「革命」の語は『易経」革の彖に「天地革(あらた)まって四時成る。湯武命を革めて、天に順(したが)って人に応ず。革之時大いなる哉」とあるによっている。天地の推移・変革して春秋夏冬、の四時が成立する。およそ変革とは天地の動きに従った行為であって、湯武の改革も上は天命に順い下は人心に応ずるものであって止むに止まれぬものである。このような変革の時とは偉大なるものである。

 右の革卦の文は天と人との法則が相応するという天人相関的思想が前提とされている。しかもこの変革は単に統治者たる人物や王朝の更迭にとどまらず、政道が改まり、社会組織が変革されることも当然意味すると考えられる。

 『書経』召誥篇は、「鳴呼、皇天上帝、厥(そ)の元子と、茲の大国殷の命とを革(あらた)む。惟れ王命を受く」とあり、多士篇にも「殷夏の命を革む」とあって、天がその命令を改めるとの言葉がのべられている。天は人民を作り、その人民のために統治者でありかつ指導者たる者を広く人民から選んで天に代って天子として政治を行わせるのである。しかし、この天 子すなわち君主が、人民の安寧幸福というものを考慮せず、かえって暴虐をほしいままにし、奢移に流れて人民を困苦におとし入れるようなことをすれば、君主は当然天から責任を問われるのである。この場合、天変地異による人民の困窮もそのなかに含まれる。君主なる者は、あらかじめこれを除去するだけの力がなければならない。君主は自然現象をもコントロールする力量をそなえているとみなされていたのである。ところで君主が天の意志に背いて人民を丙窮におとし入れる政治を行なった場合、天はその命を改めて、君主を更迭するといわれている。しかし、この夫の意志はいかにして知ることができるか。天は物言はず、これを知ることができない。この場合、天の意志は人民の意志、天下の与論によってこれを知ることができる。

 『青経』泰誓篇に「天の視るは我が民の視るに自(したが)い、天の聴くは我が民の聴くに自う」とあり、天の視聴は民の視聴に従うという意味である。天が天子を監視するのに民の耳目によって監視するというのは、天意は民意を尺度とすることを言ったもので、中国の政治思想、革命思想の民主主義的性格を示すものとして注目されてよい。

 孟子はこの革命の理論を一層徹底させ、政治は常に人民のための政治でなければならず、人民の利益を犯す支配者に対しては、君主といえども暴力革命によってこれを放伐しても差支えないと力説したのである。

 『孟子』尽心篇に「孟子曰。民為貴。社稷次之。君為軽。是故得乎丘民而為天子。得乎天子為諸侯。得乎諸侯為大夫。諸侯危社稷。則変置。犠牲既成。粢盛既潔。祭祀以時。然而早乾水溢。則変置社稷」(孟子曰わく。民を貴しと為し、社稷はこれに次ぎ、君を軽しと為す。この故に丘民に得らるれば天子と為るも、天子に得らるれば諸侯と為り、諸侯に得らるれば大夫と為るのみ。諸侯にして社稷を危うくすれば、則ち変(あらた)めて置(た)つ。犠牲は既に成(こ)え、粢盛(いせい)は既に潔く、祭祀は時を以てす。然かるに旱乾・水溢あらば、即ち社稷を変めて置つ。)とある。国家よりも、君主よりも重きものは民衆であり、民衆を危くするものは国家といえどもこれを変え、君主といえどもこれを変えよという。ここでの社稷とは、社が土地の神をいい、稜は五穀の神をいう。君主がこの二神を王宮に祭り、国家存すれば社稷の祭 行はれ、亡べば廃せられることから、転じて国家のことをいったものである。しかるべく祭祀を行なっているにもかかわらず、日照り洪水が起って人民に災害を及ぼすなら、社稷の神を変えよという孟子のこの論説は、君主のすげかえの主張と共に徹底した民衆本位主義、合理主義であり、儒教教学中極めて注目すべき論説というべきである。

 この外『孟子』には梁恵王篇に「賊仁者謂之賊。賊義者謂之残。残賊之人謂之一夫。聞誅一夫紂矣。未聞弑君也。」(仁を賊(そこな)う者之を賊(ぞく)と謂い、義を賊う者之を残(ざん)と謂う。残賊の人は、之を一夫と謂う。一夫の紂を誅せるを聞くも、未だ君を弑せるを聞かず。)という主張がある。

 夏の傑王は殷の湯王に放逐され、殷の肘王は周の武王に討伐された。湯武の革命行為を如何に評価するかは儒教教学中の大きな問題である。孟子は、家臣の身であり乍ら主君を殺すのは勿論許せないが、仁義を失った君は残賊といって最早君主ではなく、ただの一夫にすぎないと断ずる。一夫とは、民心離反し、誰一人これに帰服するものもない人民の支持を失った者をいう。かかる一夫を誅するのは、君を誅することにはならないというのが孟子の考え方である。これは湯武の革命を正当化したものとして、古来より議論の対象となった。また同じく『盂子』離婁篇には、「君之視臣如犬馬。則臣視君如国人。君之視臣如土芥。則臣視君如寇讎」(君の臣を視ること犬馬の如くすれば、則ち臣の君を視ること国人(他人)の如く、君の臣を視こと土芥の如くすれば、則ち臣の君を視ること寇讎(仇敵)の如くす。)とある。また同じく万章篇には「君有大過則諌。反覆之而不聴。則易位。」(君に大いなる過ち有らば則ち諌め、これを反覆して聴かざれば、則ち位を易う。)ともあって、孟子の君臣関係は極めて相対的なものであった。

 孟子以後中国においてはこの革命説は、張横渠・黄宗義などに受けつがれ、中国の政治理論の重要な一環をなした。「君者舟也。庶人者水也。水則載舟、水則覆舟」 (筍子王制)、「君不君、則臣不臣」(漢書、武丘子伝)、「君雖尊以白為黒臣不能聴」(呂覧、応同)などの言辞はこのような思想の影響の下に生じたとみられる。勿論この革命説を否定する反革命説もあり、支配者の立場からすれば、君主権を擁護する革命否定説が当然出現しなければならなかった。前漢の時、轅固生と黄生の二人が景帝の面前で湯武放伐の是非について論じたことが『史記』儒林列伝中に見える。黄生は「夫れ主、失行あり、臣下、正言し過を匡して以て天子を尊ぶこと能はず、反って過に因って之を誅し、代り立って南面を践む。弑に非ずして何ぞや」といって上下の分を論じ、名分論に徹したのである。「君難不君。臣不可以不臣」(孔安国、古文孝経序)という言葉などはこれをよく表現しており、日本に於いては特に重んぜられた。


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檄文
「檄文の思想を探る」その1その3

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