『旧幕府 3巻8号』(旧幕府雑誌社) 1899.8 より
扨 此度之一件之初日に、貞か月番にて出役を御届に上屋敷へ出たる時、 伝治兵衛も破損役に(て)出火に付出役を御届に出、貞と同席にて申には、
扨 四五日過ると遠藤殿にも到一郎の事を掛念ありて、組内の者なれは何卒此方手にて召捕度、親伝治兵衛は不及申、親類迄も心当りの所を尋て召捕るへく旨御申有て、彼是尋ねたれ共 行衛更に知れす。
其中に京都にて召捕になり、大坂町奉行へ引渡となりて大坂へ来る事となり、遠藤殿何卒到一郎事に付、伝治兵衛家に障り不申様にと、厚き心配ありて、次男の積りに取計ふへきやと有たれ共、江戸表より参りたる(人)相書に既に惣領とありて、前名岩太郎事当時到一郎とあれは、誰が見ても太郎一郎の名にて直に惣領のことは知れたる事を、今更次男とも為し難く、去らは久離にとありて種々其廉を詮議せられ、仲間一統まで相談したれ共、誰一人斯と申者もなく、貞が了簡には、
夫より跡部白洲にて到一郎に向て尋あるは、
其時 跡部 又尋に、
依之、大井伝治兵衛久離の悴到一郎と決着したる(ことなり。斯かる訳なれば到一郎が大塩の隠謀に荷担したる)は、全く貞が紹介にて学文に遣したるより事起りたる訳にて、左なくは、斯る事に至る間敷と親父へも気毒なりとなり。
去ながら、貞が真実少しも悪かれとて計りたることにはあらす。唯平八郎を貞か見損したる所か貞の過にて、到一郎に限らず貞か子弟にても矢張大塩へ頼むへき心底にて紹介したる事なり。
其上前年の故障にて、強て以来の所を断りたるは、其節 此に(些)意地のある程強情に断る様に思ふ人も有へしと、貞が心にも思ひし程なれ共、到一郎 人物迚も往々無事に可参ものと思はす見限り果たれは、其時も実情より強て断て親父の了簡に任せたりしが、跡にて思へは、少しは最初紹介したる罪をも薄く為したる事にて、其上 最初より総て実情を以 為せし事故哉、親父か内心にも貞が事を少も怨む事なく、以前に変らす懇切なる事なり。
扨 大坂にて到一郎入牢の躰を聞に、衣服抔も甚 見苦敷様子なれは、伝治兵衛は親子の間にて反て公儀へ恐れ憚る事もあれは、大井一軒を除きて其他廿九人は仲間中に生れ出たる好みもあれは、せめて到一郎へ衣服なり共恵み遣して可然と貞は存る故、一統へ其由を語ら(り)しが、中には罪人へ左様の事を致すは公義へ対して不可然と云ものもあれ共、其ものゝ平生の処置は甚 薄情なる事にて、是迄数年の間到一郎へ一言の意見を致したることもなく、親伝治兵衛へは猶更の事なり。
唯不行跡の事を無惰に云罵りて誹謗するのみにて、かくなりては、罪人故に公義へ憚りあり抔云々は、貞か了簡には更に合点行ぬことなり。
差程公義え憚る心あらば、是迄仲間の好し(み)を以て公儀え対しても一言意見をも云、且は教訓をも致して、箇様の事にならぬ様にするか今日の御奉公なるへきを、平日は余所事に見置て一言の教訓心添をもせす、唯誹謗はかりして、今更衣服位の品を恵み遣したりとて、さして公義へ恐れ憚るへき子細もあるましきを、兎や角いふは、さりとは薄情なる事と思し故、是も強て貞が申張りて、無地の反物を二反と洗濯料を添へて内々にて取計遣したることなり。
到一郎罪科の所は不及是非。必竟従来相番をせし大井家より生れ出たる好みを以 聊かの寸志を為せしことなり。