Я[大塩の乱 資料館]Я
2010.5.1

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大塩の乱関係論文集目次


「大塩中斎を憶ふ」その3

中野正剛(1886−1942)

『現実を直視して』善文社 1921 より

◇禁転載◇

 大塩中斎は最初大阪の与力の家に養はれて官職に従事せしも、三十七歳にして職を辞せしより以後、仁智を修め、理気を養ひ、聖賢を以て志となすの大勇猛心を起せり。彼が天保の饑饉に際会する頃、学問漸く老熟せんとし、其著書の如き既に天下の学者をして敬服せしむるものありき。併も彼が齢不惑を超えて、乱を起して死を辞せざるに至りしは、彼が講学の疏なるに非ずして、彼が熱誠の已むを得ざるものあればなり。姚江の学は由来知行合一を主とし、理義一元を信条とす、是に於てか知は行の始なり、行は知の成るなりと称し、真に知る者は行を併せ伴ふを以て要件となす。故に其学徒は往々理義を究むるに於て、浅薄に流るゝの弊ありと雖も、学者をして短刀直入、其正鵠を得しむる点に於て、我旧幕の官学たりし朱子学に勝ること数等なりしとなす。

 同じく陽明学を以て鳴る者の間、中江藤樹は最初孝経を読みて孝に於て徹底せんとし、熊沢蕃山は経世の学を喜び、治国安民に於て徹底せんとし、大塩中斎は資性任侠、奸邪を懲らし、無辜を救ふに於て徹底せんとせり。就中藤樹を以て中斎に比せんか、一は是れ温厚篤実の聖人、一は是れ豪宕卓落の烈士、其性格全く相反するが如くなれども、其胸中の誠意已むに已み難く、志を一にし、気を熾んにし、信ずる所に殉じて疑はざるに於ては一なり、藤樹の門人西川季格は藤樹を評して曰く、『其日用行往坐臥の体を見るに、荀も平人の及ぶべきものに非ず、其徳容尊んで親まずといふ者なし、是れ実に扶桑古今第一の君子なり』と。中斎の門人疋田竹翁は中斎の容貌を叙して曰く。『大塩の容貌ですか、中々美男で御座りました、少し瘠ぎすですが凛とした風采はそりや立派なものです、頭の髷は短かう結うて御座りましたが、色は白い方で、眼はあまり太くなく、少し釣つて居りましたから、少し怒を含まれた時などは、どんな者でもぴりつきました』と。以て聖人の風ある中江藤樹と、貴傑の風ある大塩中斎とを想見すべし。

 藤樹幼より伊予の大洲に長じ、大洲侯に仕ふ。母の故郷に在る者、年漸く老いて奉侍する者なきを悲み、仕を辞して静養せんことを乞ふ。侯之を許さず、癸酉の元旦、偶々皐魚が伝を読み、樹欲静而風不止、子欲養而親不待の一節に至りて感慨に堪へず、詩を賦して曰く、

と。遂に意を決して曰く、大洲侯にして余が如き庸需を求めんとならば、天下豈余一人を限らん。然るに我母に取りて、余は不肖と雖も唯一人の子なり。求むるの最も切なる所に就きて、道を全うせざるべからずと。家財一切を売却して、負債を償ひ、残余を老僕に恵みて後、纔かに旅費五百文を携へ、官を棄て遁れて近江の小川村に帰れり。人其心事を憐まざるなし。


石崎東国『大塩平八郎伝』その27


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