Я[大塩の乱 資料館]Я
2010.5.2

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大塩の乱関係論文集目次


「大塩中斎を憶ふ」その4

中野正剛(1886−1942)

『現実を直視して』善文社 1921 より

◇禁転載◇

 大塩中斎三十七歳にして官を辞し、一意諸生を誨へ、諄々として倦む所なし、学漸く精しく、教化亦日に大なり。然るに天保五年甲午以来、年荐りに饑ゑ、五穀稔らず、七年丙申に至りて、飢饉甚しく、春より夏に亘りて、淫雨連天、濠々として日輪を見ざること数十日に及ぶ。秋に至りて烈風暴雨あり、収穫殆んど絶無となる。斯くて丙申の年は饑寒の中に暮れて、丁酉の春は来れり、されど春風は愁雲を払ふに由なく、天下の饑饉は日に甚しきを加へて、道路に餓死する者日に幾十百人なるを知らず。然るに所謂豪商なる者は、貨を擁し、穀を積み、笑つて餓の野に満つるを眺め、有司等は却て富豪等と酒色の間に相遂追して、毫も民の痛苦を顧みず。是に於てか中斎は日夜に奔走して、人民を救助せんとすればども、大阪市上、陽に中斎の熟誠に感ずる者はあれど、敢て資を捐して中斎の志を成さしめんとする者なし。中斎元旦の詩に曰く、

と。中斎是に於て一切人を頼むの念を去り、独力救済を企て、遂に堪へずして乱を大阪に起すに至れり。人其志を憐まざるはなし。

 看よ中江藤樹と、大塩中斎と、其風の異なること斯の如く。其の気風の異なること斯の如し。然れども胸中に誠意の燃ゆるあり、発して熱情となり、金石を熔かし、鉄壁を貫くに至りては一なり。藤樹は曰く、樹欲静兮風不止。来者可追帰去来と。中斎は曰く、忽憶城中多菜色。一身温袍愧干天と。一は是れ親を思ふの至情なり。一は是れ民を憐むの至情なり。身大洲に在りて重く藩侯に用ひらるゝと雖も、子養はんと欲して親待たざるの一事に想到するや、矢も楯もたまらず、一意帰養に志し、他を顧みるに遑なきは是れ中江藤樹なり。身与力の隠居として、天下の学者間に盛名を馳せ、諸生踵を接して其門に集ると雖も、一朝城中に菜色多きを憶ふや、一身の温袍天に愧づるの情に堪へず、富豪に説きて得ず、書巻を売却して足らず、遂に慨然剣を按じて決起するに至りしは大塩中斎なり。一は孝、一は侠、其の発する所の形式同じからずと雖も、胸中の至誠、死に至りて徹底する所は、全く其軌を一にす。大塩中斎が大虚の解釈は、実に彼が邪奸の輩を見て赫然 憤怒する所以と、可憐の窮民を見て然襟を湿ほす所以と、 共に之を立証するに足れり。曰く、

又曰く、

又曰く、