『現実を直視して』善文社 1921 より ◇禁転載◇
世人が中斎を壮とし、南洲を慕ふは、区々国法の小天地に跼して論を立つるに非ず、不知不識の間、国法以上に瓢逸して、道義の大天地に霊光を発する英胆毅魄に感応するを禁せざるなり。国法果して時世に適せざるか、執法の人果して人民の敵なるか。此判断をなす者は何人ぞや、是れ実に政治的見識の妙用にして、何人も定義を下して規準となすを得ず。之を解決する者は、実に自由の個人なり。我れ斯く信ず、故に斯く断行すと、是れ実に革命家の心事なり。而して斯く信ずるに至るまで、演繹的に推理するあり、帰納的に結論するあり、其の研究の精疏、其の眼識の高低、其の動機の純濁は、実に革命家をして英雄たらしむるか、市井の勇夫たらしむるかを決する標準なり。大塩中斎は果して如何の人なりしか、革命的暴動を企つるに至るまで、其の研究は果して精なりしか、其眼識は果して高かりしか、其動機は果して純なりしか、是れ実に是非の議の別るゝ所なり。中斎嘗て洗心洞中に学を講じて曰く、
或人問ふ、子産の孔子に於ける、仁智如何と。曰く、仁固より及ばず、智も亦及ばざるなり、請ふ之を論ずるに小を以てして、大を以てせざらん。子産校人をして生魚を池に畜へしむ。此れ妄りに殺すを欲せずして、之を水に放つなり、仁に庶し。而も校人之を烹て反命して曰く、圉々焉、洋々焉、悠然として逝くと、子産之を信ず。此れ欺罔の別ありと雖、果して智なるか、抑不智なるか。孔子の 畜狗死す、之を埋むるに席を以てし、首陥せしむるなきは仁なり。其僕隷を使はず して、高弟端木氏を使ふは智なり。僕隷を使はゞ孔子の指令するが如く首陥せしむるなきを知るべからざるなり。如し首陥せしめば、則但に不智なるのみならず、其仁も亦之を為してに失す。子の小事に於ける、自然に周致にして漏らさゞること猶ほ此の如し。是れ聖人の聖人たる所以にして、子産の及ばざる所なり。子産安んぞ仁智を尽すを得んや。如し亦仁智を尽して憾無くば、便ち是亦聖なり、特に子産而已ならざるなり。*1
と。大塩中斎が単に市井の勇夫を以て志とせず、仁を全うせんが為に、智を極めて手段を尽すの緊 要なるを認めしこと、以て看るべきなり。又曰く、
勇士気を養ひて理を明かにせず、儒者理を明かにして、気を養はず、常人則気を養はず、亦理を明らかにせず、栄辱禍福、惟是趨避するのみ。理気合一、天地と徳を同じくし、陰陽功を同じくする者、其れ唯聖賢か。*2
看るべし、中斎は市井の勇夫たるに甘んぜざるのみならず、尋常の迂儒たるを屑しとせず、理気を合一せしめて、驀地に聖賢の域に突進せんとするの勇猛心を抱きしを。是れ吾人が時事日に非にして、人心日に浮薄なるの今日、別して中斎を憶ふ所以なり。見よ今の時に於て理を究めんとするの学者は是れあり、然れども彼等は理の為に理を究むるのみ、毫も天地を貫く大至誠なし、随て終始一貫せる志なるものなし。乃ち志専一ならざるが故に気を養ふこと能はず、気熾んならざるが故に理義の学も根本に徹底せず、理を談ずれば則ち口頭の理となり、義を説けば則ち筆端の義に止まるのみ。
又看よ今の時に於て、市井の勇夫は乏しからず、然れども彼れ等は単に血気の為に動かさるゝのみ。毫も志の帥たるべき理義の究明に工夫を用ひず、乃はち理義なき志は漸くにして専らなる能はず、志専らならざるが故に気も亦餓ゑ、遂に碌々たる窮措大となり終るのみ。彼の自由権論の勃興以後、所在に革命的活劇を演じたる壮士的政客が、今日窮すに及びて、権力者の走狗となるに至りし者、比々として之が適例ならざるはなし。