Я[大塩の乱 資料館]Я
2010.5.3

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大塩の乱関係論文集目次


「大塩中斎を憶ふ」その5

中野正剛(1886−1942)

『現実を直視して』善文社 1921 より

◇禁転載◇

 中斎が屡々血を喀くに至りし刻苦修養は、遂に心を大虚に帰し、大虚を心となすに至りて徹底せり。是に於てか森羅万象は中斎の心なり。他人の不善を為すを悪むこと、苟も自ら不善に汚されたるが如く、他人の奸邪を懲らさんと欲すること、苟も自ら胸中の邪念を払はんとするが如し。否中斎の心事は単に之れのみならずも草木瓦石に至るまで、其の摧折するを視、其の毀壊するを視れば、宛かも自ら死するが如く、自ら傷くが如く、其の心を感傷せしめずんば已まざるなり。

 況や眼前に人民の饑餓を見、前後に老若の叫喚を聴くをや。中斎が大虚の心霊、忽ち感傷し、忽ち悲痛し、人民を救済するに切なること、自ら飢渇を醫するより急なるに至るは、多く怪むに足らざるなり。然るに当時の大阪町奉行は跡部山城守なり、城代は土井大炊頭なり、何れも姑息の俗吏にして予て中斎の不羈を忌むのみならず、人民の痛苦に対しては、毫頭同情を有せざる冷酷の徒輩なり。最初中斎は寒を訴へ饑を叫ぶ人民の窮状を坐視するに忍びず、養子格之助をして跡部山城守に説き、官廩を開きて賑恤せられんことを求む。然るに跡部は言を左右に託して、因循決せず、漸くにして城代土井大炊頭に聞くに及び、城代は将軍家来春の慶事、米穀を要するの多端なるを言ひて、却て米を江戸に送るの急務たるを答ふるに至れり。中斎是に於て更に手段を尽し、米穀不可ならば金蔵を開き、闕所金を以て毎戸に五両を救恤せらるべしと哀願せしも、山城守は毫も之に耳を傾けず、遂に怫然として使者格之助を叱し、席を立ちて退席するの甚だしきに及べり。中斎之を聴き、喟然として天を仰ぎ、流涕長大息して曰く、一身民を安んずるの職に居り、冷淡軽薄此極に至るは何事ぞやと。此より去りて富豪に同情を求めんとし、先づ鴻池善右衛門を訪ふ。

 鴻池は実に船場の富豪なり、中斎が窮民饑寒の惨状を語り、東組与力二十余人の世録を抵当とし、金若干を得て、救恤の費に充てんと説くを聞き、大に感動し、約するに微力を尽くさんことを以てせり。中斎衷心より歓喜して、其好意を謝すると共に、道を説き、義を談じ、言々切々、声に次ぐに熱涙を以てす。鴻池益々動かされ、遂に三井、平野以下二十余名と相議し、金額を決定して、必ず貴意に副はんと説き、数日の猶予を請へり。然るに翌日に及び、鴻池が豪商を招待して、中斎の請に応ぜんとするに及び、町人会議の常として、吝嗇家は奇怪の理由を附して、折角の美挙を破壊するに至れり。

 鴻池は始め豪商に会するや、曰く、己れ先づ五千両を貸さん、諸君は請ふ此挙に賛して更らに五千両を貸せ、併せて一万両を得ば平八郎に交附せんと。議将に決せんとす、米屋平右衛門なる者あり、曰く、救恤の事たる高位の人之を行ふべし、大塩先生は名士なりと雖も、一の与力の隠居のみ、身分を踰え、上位者を憚らず、自ら救恤せんとするが如きは不当なり、我等町人の分際として、此非行を助け、一旦奉行所の詰責に遇はゞ、何の辞を以て之に答ふべき、先づ奉行所の裁可を仰ぎて後貸出すも晩からじと。衆議遂に之に決し、跡部山城守に訴ふ、山城守曰く、咄々平八郎、我に請ひて許されず、転じて市民に説き、擅に奉行を凌がんとす、一身の私を成さんとするか、抑々名を売らんとするか、苟くも奉行の許可を得ずして、大塩に金を貸す者あらば、立ろに厳罰に処せんと。鴻池等大に怕れ、状を具し書を贈りて中斎に謝す。

 中斎書簡を一読するや、怒髪天を衝き、歯を切り、背を決して曰く、何等の素町人ぞ、我を欺くの甚しきや。何等の奸吏ぞ、我を憎むの極れるやと。直ちに庄司義右衛門を招きて、最後の決心をなすに至れり。


幸田成友『大塩平八郎』その105


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