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2000.10.3修正
2000.6.13

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎 の 話」

田中従吾軒述 山本真太郎速記

『名家談叢 第12号』 談叢社 1896.8 所収

         

私は野田希一と云ふ先生に仕立てられた者で、此人は能く文章を書いた学者で号を笛甫と云ひました。

私が野田の内弟子に行つて居る時に岡田弘安(恒庵)と云ふ相弟子が居りました。岡田は私と同年で即ち当年七十五になりますが、此人は前に大塩の塾に居つた人で、大塩の事に付て種々珍しい事を実際見聞して居るので、此人から大塩に関する話を聴いたことがありますで、それに依つて大塩平八郎の話を申上げませう。

一体岡田弘安と云ふ人は長崎の医者でありましたが、此人がどうして大塩の所へ行つたかと云ふに、宇都(津)木範之丞と云ふ人が長崎に遊歴して行つて、長崎へ塾を開いて居つた。其時に岡田は宇津木の門に入りました。宇津木は江州彦根の家老の息子であつて、大変行状も善く、又学問もありましたから、大塩は此人に己れの塾頭をして万事塾の世話をして呉れろと云つて頼に来た。其時岡田弘安は十四才でありましたが、一緒に宇津木に就いて行つて、大塩の塾へ入つた。故に大塩の本当の弟子ではございませぬが、マア門下生と云ふやうな者でありますが、大塩の事件及其性行に就ては始終側に居て見聞したのでございます。

先づ大塩の身柄から申しませうが、大塩は大坂の町与力と云ふ者で、町与力は人民の訴訟(でいり)を捌いたり、又は犯罪人を調べたりする役で、今の所謂裁判官と同じ役をして居つたのであります。当時大坂に切支丹の老婆と云ふ者がありまして、是が愚夫愚婦を惑はしたり種々悪事を致しました。

そこで大塩は其老婆を捕へ糺問の上之を磔罪に行つた。時に其老婆が一箇の黒塗の箱を持つて居りましたが、それを非常に鄭重にして居つて、若し是を不浄の者が手に触れば直に罰が当ると云つて大切にして居り、又他の者も大に之を恐れて居た。然るに大塩は毫も之を信ぜず、それは老婆の訛言であると云うて、其箱を蹴飛ばした。先づ一端を挙れば大塩は其くらゐな剛胆な人でありました。

それから大塩は裁判の方に掛けては非常に才気のあつた人で、ナカナカゑらい者でありました。それ故に与力の長官なる町奉行が何事も大塩に相談して、大塩の言ふ事を聞いて唯々諾々として居れば宜いけれ共、若し然らずして町奉行が大塩の為したる事に逆らうと非常に憤激すると云ふ性来の男であつた。其性質が遂に彼の騒動を惹起して、其身を過る本となつたのでございます。それに付て茲に大塩の人と為りを申しませうが、今お話した通り貴下(あなた)の御無理は御尤でござる。唯々諾々として云ふ事を聞いて居れば、大塩は誠に能く力を尽すが、一ツ之に逆らうと、上の者でも誰れにでも甚しく当る癖のある男であります。前の町奉行は(名をわすれましたが)何事も大塩に任かして置いたから、大変力を尽して勤めたので、大坂の者も大塩樣々々々と云つて有難がつた(て)居りました。ところが後に跡部大炊頭(山城守)と云ふ町奉行が交代して来ると、此人はどうも大塩が町奉行を凌ぎ、専横なる事をやつて居る事が気に食はずして、度々衝突を来したことがあつた。其頃江戸に矢部駿河守と云ふ町奉行がありましたが、是は名奉行の名を取つた人でナカナカ肯かぬ気の人でありましたが、跡部も評判の人で大坂へ来ても決して大塩に任かして置きませぬ。人の差図を受けることは嫌ひで何事も皆自分でやつてのける気象で、大塩と同じ気象であつたから、大塩のする事を見て決して黙つて居ない。それ故に大塩は憤激に堪えずして跡部と並び立つことが出来なくなつた。そこで大塩は養子格之輔(助)に家督を譲つて自分は隠居した(て)しまつた。奉行も亦之を留めもせず勝手にしろと云つて隠居をさせた。然るに間もなく天保の大飢饉で、日本国中一般大恐慌を来し食物がないと云ふので諸国とも御救米を出した。然るに大坂では御救米も何にも出さない。それを大塩は隠居の身分ではあるが、平素の性質として傍観すること能はず、直に町奉行の処へ行つて、どう云ふ訳で御救米を出さないかと云ふことを詰問に及んだ。さうすると町奉行も肯かぬ気であるから、其位の事に心付かない乃公(おれ)ではない。御救米を出すことは出すが、今取調中である。其方は隠居ではないか、役が勤まらぬと云ふので隠居をしたものが、そんな事に口出しをするには及ばぬと云つて、頭ごなしにやつ付けた。それから後もさう云ふ事が度々あつたものだから、大塩の性として非常に憤激して口惜しがつた。そこで此町奉行さへ亡くしてしまへば宜いと云ふ了簡になつて遂に町奉行を討つ企を起した。

それに就て大塩の下には予て自分の使つて居つた同心と云ふ者が大勢居る。(同心は今日の巡査のやうな者)又門人も許多居りましたがそれ等も町奉行が貧民を救はぬと云ふことはない。救ふと云ひながらまだ救はぬではないかと云ふて、大に激した。そこで大塩の身分は与力で二百三十俵ほか取らぬが、役得のあるために身上が宜しかつたから、書物などを沢山所蔵して居つた。それを残らず売払つて金にして、残らず貧民に施しをしてしまつた、是が即ち策略のある事であるが、貧民はそれを知らないから大塩樣は有難いと云ふので非常に大塩を尊敬して喜んだ。それから又大塩は鴻の池や鹿島のやうな金満家へ行つて金を出させて、之を貧民に施した。是皆町奉行への面当である。

それで町奉行が其月の十九日に市中を巡廻すると云ふことであるから其途中に於て之を討果してしまふと云ふ手筈になつて、それそれ其準備をして居たところが、大塩の同志の者の中で一人裏切りをして、其事を町奉行に訴へた者があつた。町奉行では之を聞いて大に驚愕し、それは大変なことであると云つて竊に市中を巡廻することを止めた。其事が又大塩の方へ知れた。それが為めにスツカリ手筈が違つたから、それでは急に町奉行所を襲撃しやうと云ふことになつて、手下の者へ觸を廻す手紙を刷るために市中の版木師を大勢呼集めて一夜の中に版木を彫らせた。応せざるもの者は格之輔(助)が抜刀を以て脅して遂に彫らせた。其觸状には御救米を出すと言つて出さぬのは、全く町奉行が悪るい為めであるから、町奉行を殺して上(かみ)の米を残らず取つて施すから、いつ何日に何処へ出ろと云ふことを書いた。其觸状を一晩の中に廻した。さうして其翌朝町奉行所へドツと押寄せた。

町奉行の方では予て手筈がしてあるから毫しも驚かない。又其時分の大坂城代は土井大炊頭で、予て大塩が町奉行へ襲撃して来ると云ふことを知つて、十分の用意して居られたから、直ぐに人数を繰出して之を討つた。其時大塩の手下に金助(姓は分らぬ)と云ふ者があつた。是が大砲の大将であつて、大炊頭の勢に向つて烈しく大砲を打掛けたが、是には余程困つて大炊頭の方は所詮勝つ見込はないくらゐであつた。ところが大炊頭の同心に坂本金之助と云ふものが居つた。此者は予て狙撃に達して居るところから、小銃を以て金助を狙撃せしに、金助の被つて居た陣笠をかすつて弾丸は上へそれた。そこで金之助は仕損じたりと思つて、煙の中を潜つて差図をして居る金助の二三間近くまで四這(よつぱひ)に這つて行つて狙撃して、とふとふ金助を撃殺した。それが為めに大塩の方の勢は散々に敗れてしまつた。

坂本金之助は其働に依つて、一人扶持三十俵の同心から一足飛に二百三十俵の与力に昇進した。是は大変な出世である。当時は天下泰平で、戦争のあつたことがないから、士と雖も具足を所持して居る者はないくらゐで、具足がないから具足櫃の中へ鍋釜を入れて歩いたと云ふくらゐの時であるから、此戦は大変な評判になり、斯る泰平の世に金之助は右の如き功名をしたから同心より与力になつたので、是は大変な出世であります。そこで金助の被つて居た陣笠が下を向いて居つたから陣笠の上へ当つたと云ふて、其陣笠を野田希一の所へ持つて来て見せたことを覚えて居ります。それは大塩の騒動があつて五六年経つてからことで、私が二十ぐらゐの時でありました。 それから大塩の方の勢はバラバラになつて諸方へ散乱してしまつたが、大塩は如何したかと云ふに。茲に大坂の町人で一旦死罪に決したのを大塩が再び吟味し直して冤罪を助けてやつた者が大坂に居る。大塩は格之輔と共に其家へ逃込んで潜伏して居た。そこで他の者は大概捕へられたが、肝心の大塩の行衛が知れないで、三十日ばかり探したが、どうしても分らない。然るにそれが遂に発覚したのは、其町人の家で何だか知らないが、奥へ御膳が二膳つゝ三度々々大層な御馳走で上がると云ふことをそこの下女が井戸端か何かで言つた。それが世間へ広つて、遂に町奉行の耳に這入つたから、直に捕手が踏込んだ。さうすると大塩は格之輔と共に屑く腹を切つて死んで居て、毫しも逃げ廻るやうな卑怯な挙動はしなかつた。

それから大塩の門人が許多居りましたが、それは残らず捕へることになつた。其中に私より年の二才上の湯川正斎と云ふ紀州神宮の人が居つた。此人も能く大塩の事を知つて居ますから此人よりも大塩の事を委しく聞きました。湯川は大塩の騒動を起す事が顕れたから、大塩の処に居ては大変だと思つて逃げて真直には国へ帰つたら、もう既に探偵が来て居つて、直ぐ捕へられた。さうして吟味を受けたが、筋が立つて、無罪放免になつた。

岡田弘安は前にも申した通り宇都木と云ふ大塩の塾頭の弟子で、騒動の時は十五才でありました。愈々騒動の始まる時まで少しも知らないで居つたが、何だか怪しいから宇都木の部屋へ行つて「先生何と変じやございませぬか」と云ふと、宇都木が「其事は吾(おれ)は知て居る。昨夜大塩が吾を呼んで、義兵を起すと言ふから、それは大変な間違だと言つて、大塩に意見をしたところが、彼はいづれ考へて見やうと言つたが、ナカナカ肯く男ではない。そこで今に大塩が吾を殺しに来るから、其方は彦根へ逃げて行つて此手紙を母人にやつて呉れろ」と言つて手紙を出した。それは漢文でございました。さうして「吾は決して大塩に与することは出来ない。意見はしたが、肯かない故に、一命は捨てる積りだ」と言はれた。実に宜い覚悟なものだ。それから岡田が「私と一緒に逃げて下さい」と言つたら「貴様は子供だから逃げられるが、吾は逃げられない」と言はれたさうだ。此人は痔持で厠に行くと長い。或時大便に行つて居る時に、大塩が宇都木の部屋へ這入て来て、「宇都木さんはどうしたか」と云ふから岡田が「知らない、何処へ行つたか知らない。大層(せわ)忙しいやうですが何です」と言つ(た)ところが大塩は何も言はずに、戸を閉めて行つてしまつた。岡田は案じられるから厠へ行つて「先生、今大塩さんが貴下を尋ねて来ました。大層な権幕でした。」と言つたら「それは吾を殺しに来たのだ。今に斬られるから其方は早く逃げろ」と言ふから庭の塀を乗り越して逃げやうと思つて、庭へ下りて後ろを振向いて見ると、今宇都木が厠から出て手を洗つて居る所へ大塩が抜刀(ぬきみ)を提げて来て「宇都木さん」と声を掛けて斬掛けやうとすると、宇都木が「待て」と言つて、手を洗つてから徐々と首を延して斬られた。其時岡田は狼狽(うろうろ)して居つたら早く逃げろと言つて叱られた。それから岡田は彦根へ行つて宇都木の母親に逢つて其事を言つて手紙を渡した。其後岡田は町奉行に呼出されて、段々尋問に遇つたからそれは斯様々々であると其始末を言つたところが、町奉行は感心して井伊家には代々善い家来があると言つて誉められたと云ふ。是で大塩の騒動の事はスツカリ落着が付きましてございます。

大塩の学問は陽明学で、又槍を使ひまして先づ当時では上手の方であつた。学問も固より傲慢な人だから、威張つて居つたが、素人学問ですから学問は左程ではない。大塩は無暗に当時の学者を見下して居た。併し頼山陽などには迚も敵はぬから、尊敬して居つて山陽に蘆鴈の絵を贈り、山陽は又それに対して礼の詩などを贈りました。大塩は学問の方は深くはないが、若し之を彼此言ふ者があると直ぐに怒つてしまふ。

大塩は与力の身分でありながら下役の同心に何か失策があつたとて之に腹を斬らしたことがある。是は与力風情に有る間敷きことだ。それを篠崎小竹が聞いて、大塩に逢つた時「大塩さん、此間の人は切腹をさせたさうでございますね、同心風情で切腹は有難いことで、死ぬ際にあなたの事を有難く思ひましたらうな」と言つて嘲弄したら、真赤になつて怒つて黙つて居たが「金ずきの儒者の知る所にあらず」と言つて威張つて居つたと云ふことがある。

それから又土屋鳳州の養父相馬一郎は私も懇意であつたが、其人の話に大塩が町与力を勤めて、大塩樣で威張つて居る時、まだ貧乏書生の相馬が或懇意な医者の所に行つて「是から大塩の所へ行つて学問上の事を論じなければならぬ」と言つたら其医者が「それは大変だ、よせ」と云ふから「何に訳はない」と云つて出掛けて行くと、其医者が心配して後から就いて行つて見ると、相馬と大塩と火花を散して討論して居る。大塩は居合腰になつて居ると、相馬は腕まくりをして、議論をして居つた。相馬が「あなたは先生だから私は学問上の説を伺はうと思つて来たので、説と云ふものは合はないことがある。それを論じて利益を得るのである。あなたの言に逆つては悪るいが、学問のことは争ひでございます。それを怒る訳はないじやございませぬか。」と言つたところが、遂に大塩も怒ることが出来ないやうに言ひ伏せられた。

大塩は斯の如き人物だから跡部大炊頭が頭ごなしにして大塩を抑へたから、憤激して前後の考もなく、彼の騒動を惹起したのでございます。先づ是くらゐにして置いて何れ又大塩の学問のお話を致しませう。

  (完)


【管理人註】
「坂本金之助」は、玉造与力「坂本鉉之助」のこと。

参考
井上哲次郎「宇津木静区
原口令成「宇津木矩之丞臨終の実況
大塩平八郎叛乱紀事附録 宇津木敬次告訣手簡」(事実文編)


初月楼主人「田中従吾軒翁の「大塩平八郎の話」を読みて
一点外史「田中従吾軒翁の「大塩平八郎の話」を読みてと題せるを読みて初月楼主人に与ふ
田中従吾軒「再び大塩平八郎に就て

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