Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.2.7

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大塩の乱関係論文集目次


「大塩事件・天保改革と 住友の〃家政改革〃

―〃家宰〃鷹藁源兵衛を中心に―」

その17

中瀬寿一

大塩研究 第15号』1983.4 より転載

◇禁転載◇

五、源兵衛の画期的な「家」制度改革案
   ―幕府の政策転換と純益増を背景に(一八四四年)― (5 )

この源兵衛の改革意見のなかで、新たに提起された点として注目されるのは、

@山本新田への移転が二者択一的にうちだされ、もし「新田へ御引移相成候ハゝ、新田益几一ケ年一五貫目可有之、夫を以御賄ニ致し、余ハ預銀利足にて御賄被遊度候事」をのべている点であろう。これは、三井が〃家政改革〃のなかで、このあとの一八四九(嘉永二)年七月、同族一同伊勢松阪にひきこもることを提起しているのと相対応するもので、その先駆としてきわめて興味深い。

また

A「弥御一洗に候ハゝ、本家ハ一見明家に致し、表口ハ板囲にて出入り吹所一方口とし、奥向店方不残〆切」ることをすすめている。これがのち、一八四九(嘉永二)年の〃家政改革〃の折、実行に移されているわけで、三井の改革と多くの点で共通した側面をもっている、と考えられる。

B「店方人数手代にて五、六人」そのほか「子供・下男女共十四、五人」少なくすること、

C若且那の友視は東座敷か裏町に住居し、理兵衛は借家内に住居して庭座敷に詰め、遊楽ばかりの甚次郎は、召使いをへらし、「一季一貫目」「一ケ年六貫目位にて御辛抱」ねがうこと、

D別家末々の者「多くハ家督銀利足等頂載」しているが、その利息を引下げるのもやむをえないこと、

E本家の費用節約法としては、御上向入用(若旦那・理三郎・甚次郎の賄料)より二七貫目、年中諸入用より九〇貫目、計一一七貫目を計上し、

Fあれほどやかましくのべてきた銅山の損金については、買上げ銅値上げにより損失がなくなったこと、三光銅山も産銅がふえ、損失にならないことなどものベている。

G御米代の上納拝借銀の返済についてはできるだけ延期し年賦で支払うこと、

そして最後に

Hこの改革は「御家開発以来未聞の心配」で、「程能く成就致候上にては急度御褒美」を一同に与えられるべきこと

などを、具体的かつ率直に提案しているのである。だが、まだそこには鉱山労働の、機械化・近代化の思想が十分みられず、幕府によってほとんど独占的に買上げられ価格もおさえられ、〃営業の自由〃もなく、市場が狭隘な条件のもとで、産銅高の増大が必らずしも志向されず、本格的な産業資本への転化・発展がめざされなかったところに、歴史的な限界がある、といえるであろう。

 しかしながら、この改革プランに対し、当主友聞が支配方をよび出し、その意見をのべるよう申渡されただけで、何の沙汰もなくすぎていった。その後やっと老分をよび集め、評議がおこなわれるにいたったが、源兵衛など「御主人ノ御了簡ヲ承ハラスシテハ、銘々共何程意見申立ツルモ画餅に属シ、仕法モ難出来」とのべる始末で改革案はなかなか実行に移されず、ジグザグの道をたどった。

 この点、小林良正氏守かって『日本資本主義発達史講座』(第一部)で、「天保改革の失敗の窮極の原因は、結局、幕府の微力と云ふこと」にあるとしても、「とくに幕府直轄地(主として城下=商業都市)……における、その厖大なる商業=高利貸資本の集積にもかかはらざる、その産業資本への転化の欠如、従ってそのとくに寄生的=内訌的な性質に由来する」ことを明らかにされ、「〃天保改革〃の失敗にもかかわらず、幕府それ自身も亦、いまや明らかに〃原始的蓄積国家への傾斜〃を示してきた徴候」(六頁)を鋭く指摘されていたのが思いおこされる のである。


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「大塩事件・天保改革と住友の〃家政改革〃」目次/その16/その18

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