Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.2.14

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「大塩事件・天保改革と 住友の〃家政改革〃

―〃家宰〃鷹藁源兵衛を中心に―」

その18

中瀬寿一

大塩研究 第15号』1983.4 より転載

◇禁転載◇

六、家長=友聞と家宰=源兵衛の退隠
   ―純益へ転換、家運挽回のなかで(一八四五年)― (1)

 水野忠邦が失脚した一八四五(弘化二)年をむかえると、四月に銅座より吉報がまいこみ、銅山御手当金のほか、御救助銀として辰年(一八四四年)より申年(一八四八年)まで五年間、年銀一〇〇貫目貸付け、酉年(一八四九年)より一〇カ年賦で返納せよ、との申渡しがあった。ついで五月には、幕府隠密二人の別子銅山潜入事件がおこったが、これを発見した幕府側の役人たる鈴木武平らによって泉屋住友の側にむしろ忠実に(?)報告され、泉屋側の指示でこの隠密は結局別子・立川銅山の悪いところ、疲弊ぶりばかり過度にみせつけられて、江戸にもどることになった。その結果、幕府に別子休山の危機を報告し、逆に幕府の「ドル箱」としての緊急援助の必要を示唆することとなったようである。

一方、大坂において鷹藁源兵衛の熱誠をこめた〃家政改革〃意見書が容易に実行にうつされず、その前途の多難を思わせたが、彼の忠諌が効を奏したのか、ついに同年六月、友聞が幕府に退隠届を提出するにいたった。

 こうして、第九代友聞は、忠実なる番頭・鷹藁源兵衛による〃家政改革〃の推進と幕府による御用銅買上げ値段の増額、銅山手当金の支給、借入金の利子下付などの手厚い援助策によって、製銅損益が赤字から純益増大へと転換をとげ、家運が挽回した画期的な年、一八四五(弘化二)年の一一月に隠退し、家督を第一〇代友視(万太郎、のち吉次郎)に相続したのであった(ここにおいて、源兵衛も退隠し、養子源三郎に相続したが、なおこの隠居の裏には改革派に対する保守派のまき返しなど複雑な事情があったようで、この点後述する)。

 第九代友聞の人となりについては、家史『垂裕明鑑』(巻之二十)が次のようにしるしている。

「人ト為リ豪奢ヲ好マし、尤飲酒ニ耽り、其大酔ニ乗ジテハ、或ハ人ヲ罵詈セラルルノ癖アリ、然レドモ平居ハ心性漉落ニシテ人ニ亢フラズ、能ク家宰ノ言ヲイレ、過失アレバ能ク改ムルノ風アリ。是ノ時ニ当テハ家政困難ニシテ、紀綱漸ク弛ミ、雇員以下殆ンド台心惰ニ流レ、主家ノ安危ヲ顧ミザルノ状況アリ。加フルニ、天保以来諸侯方ノ調達金年々其多キヲ加ヘ、予州銅山モ屡々変災ニ罹り、失費多クシテ純益少ク、江戸出店モ業務委靡シテ振ハズ、実ニ住友一家危急、是ニ於テ極レリトイフベシ。然レドモ幸ニ家宰ニ忠勤ノ人アリテ、勉強矯正セント欲スルモ、左支右吾速ニ断行シ難キ事情アリ、友聞君モ、固ヨリ改革ニ意アルヲ以テ、遂ニ節倹法ヲ立テ、以テ家基ヲ保持シ、再タビ家運ヲ既衰ニ挽回スルニ至ルハ、実ニ一家の幸福トイフベシ。」
「退隠後ハ裏町ニ住居セラレ、歌咏ヲ楽メリ、嘉永六年癸丑六月十日友聞君歿、享齢六十七才」


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「大塩事件・天保改革と住友の〃家政改革〃」目次/その17/その19

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