Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.2.21

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大塩の乱関係論文集目次


「大塩事件・天保改革と 住友の〃家政改革〃

―〃家宰〃鷹藁源兵衛を中心に―」

その19

中瀬寿一

大塩研究 第15号』1983.4 より転載

◇禁転載◇

六、家長=友聞と家宰=源兵衛の退隠
   ―純益へ転換、家運挽回のなかで(一八四五年)― (2)

 以上のとおり、〃家宰〃鷹藁源兵衛を先頭に〃家政改革〃をおしすすめつつ、「銅山永続困難」「休山ニモ可及程ノ儀」とくりかえしPRし歎願してきた結果、一八四三(天保一四)年の銅山むけの安い買受米代銀(五三二貫八九〇匁五分)を、前年(一八四四年)正月に支払うべきところ、この年(一八四五=弘化二年)の末に一三二貫八九〇匁五分だけ返納し、あとの四〇〇貫匁は一〇カ年賦でよいという、きわめて有利な御沙汰が幕府から届けられた。これも事実上幕府の資金援助にほかならず、いかに泉屋住友が特権政商=銅山マニュファクチュアとして幕府権力に保護育成され、幕藩権力との癒着によって、合理化・首切りと原始的な資本蓄積が強行されていったかをしめすものということができるであろう。

 じじつこの年から以後三年間(ただし、その後も順次延期)、別子・立川銅山手当金として年銀五四〇貫目が下付され、表のとおり、製銅損益はやがて一八四三(天保一四)年の五六九貫目の損失から一八四五(弘化二)年には二五貫目の純益へと転換をとげ、一八四六(弘化三)年には六七貫目、そして一八四七年には実に三六一貫目の純益をあげるまでに泉屋住友の経営はみるみる好転していったのである。その背景として阿片戦争以降の内外の銅需要の増大が無視できないが、一八四五(弘化二)年以降に書かれたという花井一好の『減銅録』が、次のように端的にそれを物語っている−。

「銅の用の多き事は、和蘭は云ふに不及、西洋の諸州にて用ゆる処数多也、大小の船を造るに用ゆ、大小の炮を鋳造するに用ゆる事は数万斤也……」


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「大塩事件・天保改革と住友の〃家政改革〃」目次/その18/その20

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