Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.8.7訂正
2002.7.5

玄関へ

大塩の乱関係論文集目次


「大塩平八郎の乱が及ぼした淡路への影響」
その2

野口 早苗

『あわじ 第6号』淡路地方史研究会 1989.2 より


禁転載

  島田茂右衛門の日記よリ  (天保八年二月・茂右衛門66才)

廿日 晴
七ツ頃より南風強し 須本より五郎左衛門@夜に入り帰る 大坂変有(あり)しよし咄(はなし)

廿二日 晴
上八木地祭人形見物Aに参り七ツ頃帰る 晩方不動氏廻勤 来り帰る

廿三日 晴
生駒隼之助様七ツ過徳府Bへ御越 稲田様C 四ツ頃徳島へ御通行に付 五郎左衛門早朝より八木へ参る。四ツ頃和田嘉市来り大坂大変の物語りす

廿五日 晴
十九日大坂表異変の儀に付、一昨日より福良浦Dより御越の諸士様 九郎兵衛様兵庫様E始残らず須本へお帰り遊されるに付五郎左衛門早速八木Fへ罷り越し、九郎兵衛様八木でお昼休、又お目付生駒様御郡代佐藤兵次様八ツ頃御通り、御仕置中尾河内様夜に入り徳島より御渡海等通行遊ばされる 五郎左衛門夜四ツ前八木より帰り又、鶏鳴G八木へ参りける 威光寺来り帰る

廿六日 午時より雨
朝、和田金剛寺より来りかえる。今日五郎左衛門八木より帰る。直様相詰、晩方雨止む
十九日大坂表乱妨張本人人相書公辺より御達御触

廿七日 晴
午時原子来る 是は梅窓氏切手H無きに付、村役人へ相理(あいことわり)の趣など相談に参り帰る。

廿八日 晴夜雨
来朔日(ついたち)、人改めの儀に付八木組I御用に付五郎左衛門晩方中 筋Jへ参る。夜に入り帰る 今夕刻、道人、六ケ浦など二人逗留 夜に入り雨降り暁雨止む

廿九日 晴
明日人改めに付五郎左衛門上八木へ参り手配す、予は村内手配に付、本家にて宿す。原子方へ行き梅窓の件に付参り帰る

三月朔日
今日国中人改K 夜七ツ頃村内寄合手分相済、暁方何れも帰る。大坂奸賊共未だ行衛相分らざる故なり 五郎左衛門夜に入り八木より帰る

五日 雨 朝雨降り出
九郎兵衛様御通行、雨天に付五郎左衛門は八木にて宿す

六日 雨
九郎兵衛様 今暁六ツ時に発ち駕の由伝え聞く 八木昼にて御通行、兵庫様右同徳島御渡海御通り、五郎左衛門八木逗留 去十一月(昨年天保七年のこと)は雨天勝にて田地乾き申すべく是無故、田畠手入今以て出来申さず、田分の儀は殊更何れの村も同様。肥等も入れがたく雨繁く手入出来申さず処より草生え田分の処は大いに見苦敷又、此の頃は水やけとやらにて麦の根相腐枯れ、近年打続く陰気異天相故弥、飢饉の始めにて此先行おぼつかなく眉をヒソメ薄氷を踏む思いなり

近国米値段何れも弐百匁余に相聞え阿州Lの方先月は米値段弐百三十八匁までの由、此頃にては凡(およそ) 弐百匁位と相聞く、大坂大変に付引下げ
大坂奸賊渡辺良左ヱ門事河州おんち村にて切服の由相聞え又、瀬田済之助、庄司儀左ヱ門召捕

七日 晴
午時過 佐藤兵次様御手代八百太殿同心等阿万の方へお通り、是は大塩一件に付て也

と、大塩の乱に関する記録はこの日で終っている。こヽで注釈を少しつけ加えた後、次の紋右衛門の日記にうつりたい。


注釈
@五郎左衛門は茂右衛門の息子で、この頃(天保八年)茂右衛門 は庄屋職を息子にゆづっていた。須本役所で大塩事件を鳥井村庄屋として五郎左衛門が聞いて帰って来た。
A現在、国の重要無形民俗文化財に指定されている淡路人形芝 居が祭日などに盛んに催され賑わっていた。
B徳島の城下。
C藩の筆頭家老稲田九郎兵衛(一万四千石)のこと。洲本城代をつとめ淡路島民にとっては稲田氏は「淡路の殿様」であった。
D福良・徳島間は航路が発達して船の往来が多く、徳島から藩士が福良経由で洲本への城下入りをした。
E稲田一族で、稲田兵庫(千五百石)のこと。洲本城詰の武士で宗門改め奉行をつとめる。
F近隣十数ケ村を束ねる役所。
G一番鶏の鳴く頃、夜明け前。
H旅に出る時必要な通行切手(許可証)
I上八木・新庄・馬廻・青木村など十一ケ村で形成された組。五郎左衛門はこの八木組の世話役をつとめていた。
J中筋・鮎屋・徳原・広田宮村など九ケ村を束ねていた中筋組・組頭庄屋・中筋村不動氏のこと。
K淡路国(全島)すべての所で人改め(戸籍調)が行れる。
L阿波・徳島方面のこと。



  Copyright by Sanae Noguchi 野口早苗 reserved


「大塩平八郎の乱が及ぼした淡路への影響」
目次/その1/その3

大塩の乱関係論文集目次

玄関へ