『あわじ 第6号』淡路地方史研究会 1989.2 より
『大塩研究』第8号
生駒山麓の村からみた大塩事件 −紋右衛門の日記を通して−
十九日 天気よろしく、朝間、七兵衛・恒七・豊吉・大芝へこゑ持。朝飯後より向垣内こゑ置、早朝より大坂天満より出火、夫よりせん場、上町一時に出火、四ツ時頃より大変ニ相成り其夜も同断、よく日同様大出火。同日非人たおれ居候ニ付、御役所へ届ケニ参り、字六ノ坪大作ノ地面ニ候。
廿日 天気よろしく朝間、恒七、豊吉こゑ置。朝飯後より大工地こゑ置。大坂出火、其夜迄、七ツ峙頃相納り申候。
後略。
廿一日 早朝より大雨降り続キ、九ツ頃より天気ニ相成候、男共糸仕事いたし候。
後略
廿二日 天気よろしく候。朝間、豊吉、額田村嘉左衛門へ油買ニ行、恒七こゑ持大芝へいたし候。
後略
廿三日 天気よろしく、朝間、恒七大芝へ午坊まきニ行、豊吉ハ粉引いたし候。
後略
廿四日 雨天気ニ候。朝間、豊吉米踏、七兵衛大芝へこゑ持いたし候。
後略
河内郡四条村から大坂の天満までは、直線距離にして約十二キロ、平野が広がりさえぎる物は何も無く、大坂市中に燃えひろがる火の手が良く見え十九・二十日と二日間燃え続けたのをこの村の人びとが見ている。それにもかヽわらず、大塩挙兵という幕府にとってただならぬ事態であったはずなのに幕府側の取締り、警戒体制が、この四条村の地域ではほとんど何もとられていなかったらしい。年寄役の紋右衛門が役人からよび出された様子もなく、農家の日常生活に大塩の乱の後、いつもと変らず村に緊張感もなかったらしいと筆者の中塚氏が文中でのべられている。