『あわじ 第6号』淡路地方史研究会 1989.2 より
鳥井村、島田茂右衛門の日記には二十日夜「大坂変有しよし」と、海をへだてた淡路島の方がはるかに具体的に情報が入っている。
このすばやい情報の伝播と淡路での事件に対する処置のありさま
が下物部村(現在の洲本市)組頭庄屋、佐野助作による『大塩一件
聞調と手配』(御用控)『大坂表多変之大火様子承書』(十枚綴一
冊)の古文書に非常に細かく記されている。
大塩一件聞調と手配
天保八酉年二月十九日
大坂表異変有 翌廿日九ツ時(昼頃)上より急飛脚参り 同日
八ツ時(午後二時頃)私并仲野正平両人即刻立ニて彼地ノ様子
聞合せ御用被仰付 尤も両人之内壱人は直様(すぐさま)罷帰、様子申上候様仕(つかまつる)べし。壱人は相残り追々御注進申上候様……中略
同二月廿五日より海辺へ御手当御出張ニ付 人馬割本役被仰付
昼夜相勤申。
同廿七日夜 明石表御備向の御様子聞調被仰付 即刻出船廿
九日未刻 罷帰委曲申上 夫より直様人馬割本役相勤都而(すべて)右御用相勤申候
佐野助作 勤書
大火様子承書(十枚綴)は伊加利村(現在の西淡町・洲本から二十キロ余はなれた所)組頭庄屋、仲野正平と佐野助作の二人が二十日に出発、二十一日早朝塩尾港から出航、途中、風雨の悪天候に見まわれ岩屋で天候待ち、少しおさまり出航して夜中十二時にやっと兵庫の港に着く、翌朝早く出て大坂に申刻(さるのこく)(午後四時)に着き、早速阿波藩の蔵屋敷に行き詳細な事件の情報を得る。承書は二十五項目からなり、主な内容は「大坂城代より廿日酉刻発行された大塩平八郎等六人の人相書手配書を拝見」「大火被害の町筋・家の状態」「鎮圧に出た兵士の様子」「大塩方の死骸、火事羽織下に小具足着仕」などの文面を見ると当時の凄惨な事件の様子が鮮烈に浮かびあがって来る。承書の終の方には次の様に記されている。
廿三日酉刻、御屋敷様より旅宿へ罷帰、直様乗船仕、川に下り、淀丑刻出航、今日未刻洲本着船仕候
と、二十日に一報が入ってから佐野助作・仲野正平の二人は文字通り不眠不休で大坂の蔵屋敷へ出かけ事件を記録し、二十三日草木も眠る丑満(うしみつ)刻(どき)(午前二時−二十四日のこと)大坂を出て午後二時に洲本へ着きすぐに報告書を書いて提出している(承書は二十四日付となっている)